今回のテーマは、非常に現代的でありながら、古来から続く人間の根源的な問いでした。それは、「熱中しすぎていいのか?」という問いです
きっかけは、ある参加者が読んだ一冊の本でした。その本には、いわゆる”推し活”に没頭する人々が登場します。オーディション番組から生まれたアイドルグループを応援するため、CDを100枚、200枚と購入する。握手会の抽選券を手に入れるために何万円もつぎ込む。デビューシングルの売上ランキングを上げるために、自分を犠牲にしてまで買い支える。
その姿を見て、参加者は素朴な疑問を抱きました。
「何かにそこまで熱中できるのは、ある意味で幸せなことかもしれない。でも、生活を犠牲にしてまでお金を使いすぎたり、他のことが目に入らなくなったりするのは、果たして本当に”良いこと”なのだろうか?」
この問いを起点に、今回の哲学カフェは「熱中」「没頭」「依存」「主体性」といったキーワードをめぐり、深い対話の海へと漕ぎ出していきました。本記事では、その白熱した議論の様子と、そこから見えてきた「幸福な熱中」のあり方についての考察をお届けします。
それは「没頭」か、それとも「没頭させられている」のか?
まず議論になったのは、その「熱中」が本人の内側から湧き出た純粋な「没頭」なのか、それとも外部から巧みに仕掛けられた「中毒」に近いものなのか、という点です。
仕掛けられた熱中と「わかっているけど、やめられない」
話題に上がった本の中では、アイドルの売り出し戦略を考えるマーケティング担当者が登場します。彼らは、ファンの心理を深く理解し、どのタイミングでどんな情報(例えば、アイドルの苦労話や舞台裏のストーリー)を発信すれば、ファンがより深く「はまってくれるか」を計算し尽くしています。
「ファンへの伝え方次第、物語の発信の順番次第で、ファンがどれだけ熱中してくれるかは変わってくる」
これは、現代のSNS戦略やスマホゲームの仕組みにも通じるものがあります。人間の心理を巧みに利用し、リソース(時間とお金)をつぎ込ませるように設計されている。参加者からは「没頭しているのではなく、没頭させられているのではないか」という指摘が上がりました。
さらに厄介なのは、当事者たちも「明らかに仕掛けられている」と薄々気づいていながらも、その引力から逃れられない、むしろ「中毒みたいになっていく」側面があることです。
「本人が幸せなら良い」は真実か?
これに対し、「たとえ仕掛けられたものであっても、本人が精神的に満たされて幸せなら、それはそれで良いのではないか?」という意見も出ました。
確かに、”推し”の存在が日々の活力になったり、”推し”を通じて仲間ができたりと、熱中がもたらすポジティブな側面は計り知れません。「推しに救われた」という言葉があるように、それが生きる支えになることも事実です。
しかし、議論はさらに一歩踏み込みます。
「その状態は、本当に自立した幸福と言えるのだろうか? もしかしたら、それは自分の成功ではなく、他人の成功を自分の成功と同一視し、神にすがるような状態に近いのではないか?」
自分の人生の主導権を他者に明け渡し、”推し”という存在に依存してしまっているのだとしたら…。それは「熱中しすぎていいのか?」という問いに、警鐘を鳴らす視点でした。
「主体性」はどこにある?——矢沢永吉ファンと現代の”推し活”
「熱中」と「依存」を分ける鍵として浮上したのが、「主体性」というキーワードです。
ここで、ある参加者から面白い比較対象が提示されました。それは「矢沢永吉さんのファン」です。
エネルギーをもらうファン、成功を同一視するファン
数十年前から続く矢沢永吉さんのファン(特に経営者などに多いと言われる層)のあり方と、現代の”推し活”には違いがあるのではないか、というのです。
- 矢沢永吉ファン(とされるイメージ):
Aちゃんのライブに行き、エネルギーをもらう。「俺もAちゃんみたいに成り上がるぞ」「明日から仕事を頑張るぞ」と、自分自身の人生への活力に転換(感化)する。主体性はあくまで「自分」にある。 - 現代の”推し活”(とされる一部のイメージ):
“推し”に自分のお金(リソース)を投資する。その結果、”推し”が成功していく姿を見て、あたかも自分が成功したかのように「勘違い」する。主体性が「他人(推し)」に移ってしまっているのではないか。
この仮説は、「Aちゃんのファンは、Aちゃんの幸せが自分の幸せ、というわけではない。Aちゃんに感化されて『自分が』頑張るんだ」という指摘によって、さらに鮮明になりました。
「影響を与えたい」という能動性
しかし、この二項対立に対しても、すぐに反論が上がります。
「現代の”推し活”が、一方的に与えられるものを享受しているだけ(主体性がない)というのは本当だろうか?」
「むしろ、CDを何枚も買ったり、SNSで応援したりすることで、『自分たちがこの推しを喜ばせたい』『自分たちの力で影響を与えたい』という、非常に能動的な意志が働いているのではないか?」
確かに、事務所側からすれば「ありがたいコアなファン」であることは間違いありませんが、ファン側にも「自分(たち)が推しを支えている」という強い主体性を感じている可能性があります。そうなると、主体性の有無で「良い熱中」と「悪い熱中」を分けるのは、そう単純ではありません。
哲学カフェで深掘りする「主体性」の正体
議論は「では、本当の”主体性”とは何か?」という、より本質的な問いへと移っていきました。
刺激と反応の間に「自分で選ぶ」スペースはあるか
ここで、ある参加者がスティーブン・R・コヴィー博士の『7つの習慣』における「主体性」の定義を紹介しました。
主体性とは、「刺激と反応の間のスペースを自分でコントロールできること」である。
例えば、甘いカフェラテ(刺激)を見たときに、何も考えずに飲んでしまう(反応)のではなく、その間に「本当に今これを飲むべきか?」「砂糖の依存になっていないか?」と一度立ち止まり、飲むか飲まないかを「自分で選択できる」こと。これが主体性だというのです。
動物にはこの「スペース」がなく、刺激に対して自動的に反応してしまいます(パブロフの犬のように)。
これを”推し活”に当てはめてみると、こうなります。
「”推し”の新しいグッズが発売された(刺激)」→「(ここで一旦立ち止まるスペースがあるか?)」→「何も考えずに買う(反応)」
もし、この刺激と反応の間で「自分は今月ピンチだから、これは我慢しよう」「いや、これは自分へのご褒美として、納得して買おう」と自覚的にコントロールできているならば、それは主体的な熱中です。
逆に、そのスペースがなく、刺激に対して自動的に「買わなきゃ」「つぎ込まなきゃ」と反応してしまっているのなら、それは「熱中しすぎ」であり、「依存」の状態にあると言えるのかもしれません。
ワーカホリックと「熱中」の違い
この主体性の定義は、”推し活”だけでなく「仕事への熱中」にも当てはまります。
いわゆる「ワーカホリック(仕事中毒)」と呼ばれる状態。これは、仕事に熱中しているように見えて、実は「仕事に取られちゃってる」状態、つまり主体性がない状態だと指摘されました。
「仕事しないと不安で仕方ない」と感じるのは、仕事(刺激)に対して「休む」という反応を自分でコントロールできなくなっている証拠です。
一方で、起業家が一時的に仕事に全振りするような場合は、主体的に「今はここに集中する時期だ」と選択している可能性があります。その熱中は、ワーカホリックとは質が異なります。
「正解がない時代」と「自由の刑」
では、なぜ現代において、人はコントロールを失うほど何かに「熱中しすぎて」しまうのでしょうか。
なぜ人は「よりどころ」を求めるのか
対話の中で出た一つの見解は、「現代は正解のルートがないから」というものでした。
かつてのように「良い学校に入り、良い会社に就職すれば安泰」というモデルが崩壊し、生き方の選択肢が爆発的に増えました。YouTuberになる道もあれば、世界中を旅する道もある。SNSを見れば、無数の「幸せそうな生き方」が目に入ってきます。
選択肢が多すぎるということは、裏を返せば「日々、私は今日何をすべきか、どう生きるべきかを、全部自分で考え続けなければならない」というしんどさを伴います。
だからこそ、「これさえあればいい」「これに従っていればいい」という強固な「よりどころ(生きる指針)」が欲しくなる。それが”推し”であったり、特定の宗教であったり、あるいは過度な仕事であったりするのではないか、という考察です。
サルトルの「人間は自由の刑に処されている」
この議論は、哲学者のサルトルが提唱した「人間は自由の刑に処されている」という言葉を彷彿とさせました。
コップやハサミは、「液体を飲むため」「紙を切るため」という目的(存在理由)が、作られた瞬間に決まっています。しかし、人間にはそれがない。「何のために存在するのか」が定められていないまま、この世に放り出される。
だから、私たちは自分で自分の生きる意味や目的を探し続けなければならない。これが「自由の刑」の重みです。
この重荷から逃れるために、私たちは何かに熱中し、それを「自分の生きる意味だ」と定義しようとするのかもしれません。江戸時代のように「百姓の子は百姓」と決まっていた方が、考えなくていい分、幸せだった可能性すらあります。
何に熱中するか?「魂が喜ぶ」熱中とは
議論は終盤、熱中する「対象」によっても、その是非が変わってくるのではないか、という視点に移りました。
お金や名声のための熱中
「お金を稼ぐこと」や「名声を得ること」を第一目的にして熱中すること(例えば、金目当ての起業)は、果たして幸せなのか?
ある参加者は「それは本当に面白くない」「魂が死んでしまう」と語りました。
お金や名声は、あくまで「結果」や「副産物」としてついてくるなら良い。しかし、それを目的に据えた瞬間、純粋な喜びは失われ、虚しさが残るのではないか、というのです。
「シャボン玉を吹く」ような純粋な熱中
では、「魂が喜ぶ」熱中とは何でしょうか。
それは、「子供心のような、純粋な心で楽しめるもの」への熱中です。例えば、子供がシャボン玉を吹くとき。それは「誰かに可愛いねと言われるため」でも「お金を稼ぐため」でもなく、「それ自体が楽しい」からやっているのです。
「過去にゲームが大好きで、何も考えずにずっとやっていたら、めちゃくちゃ上達して、結果的に少し稼げた」
このような、「それ自体が目的」であるような熱中こそが、最も幸福なあり方ではないか。たとえそれで収入がゼロになっても、悪魔に魂を売って生きるよりはマシだ——そんな力強い意見も飛び出しました。
まとめ:熱中の「ライン」を知り、「バランス」を見つける旅
「熱中しすぎていいのか?」——この問いから始まった哲学カフェ。対話を通じて見えてきたのは、明確な「YES」や「NO」ではありませんでした。
熱中すること自体は、人生を豊かにする強力なエネルギー源です。問題は、その熱中によって「主体性」を失い、コントロールできなくなっていないか、という点にあります。
今回の対話から得られた、私たちが「幸福な熱中」と付き合っていくためのヒントをまとめます。
- 熱中しすぎる経験も、一度は必要かもしれない。
一度とことん熱中し、「あ、今ちょっとやばいな」というラインを経験することでしか、自分の「感覚的な限界」はわからない。その経験が、次からのコントロールを可能にする。 - 「刺激と反応のスペース」を意識する。
自分が今、主体的に「選んで」熱中しているのか、それとも刺激に対して「自動的に反応」してしまっている(させられている)のかを、客観的に(俯瞰的に)見つめる視点を持つ。 - 熱中対象の「バランス」を考える。
“推し活”だけ、仕事だけ、に全集中するのではなく、仕事、家族、趣味、学びなど、いくつかの柱に分散させる方が、精神的な安定(セーフティネット)につながるのではないか。 - 「魂が喜ぶ」熱中を大切にする。
お金や他者評価のためではなく、「それ自体が楽しい」という純粋な動機から来る熱中を見つけること。
結局のところ、「熱中しすぎていいのか?」と自分に問い続けること自体が、私たちが主体性を失わずに生きるための、最も重要なアンカー(錨)になるのかもしれません。
あなたの「熱中」は、今、あなたを幸せにしていますか? それとも、あなたを縛り付けていますか?
この哲学カフェは、そんな自分自身の「熱中」の質を見つめ直す、貴重な時間となりました。
(このテーマについての、別テーブルでの対話の記録はこちら)

