この日の哲学カフェの後半では、参加者の皆さんと「どんな人が哲学カフェに来るのか?」という興味深いテーマで面白く語り合いました。この開催報告では、その深掘りした会話の様子を詳細にお届けします。
哲学カフェに「来ない」人々とは?:意外な傾向が明らかに
まず、参加者の皆さんから挙がったのは、「哲学カフェには来ない」と明確に言える人々の傾向でした。特定のライフスタイルや思考パターンを持つ人々は、このユニークな場にはあまり足を運ばないようです。
「渋谷のパリピ」は来ない?
具体的には、「渋谷や六本木、麻布にいる特定のタイプの人種」、いわゆる「パリピ(パーティーピープル)」は来ないという意見が出ました。彼らは夜遅くまで飲み遊んでいるため、早朝からじっくりと対話する場には馴染みが薄いのかもしれないとのことです。
「頭が良く、自分の意見を曲げない人」は敬遠しがち
最も特徴的だったのは、「頭がめちゃめちゃ良くって、人の意見を聞かない人」が来ない傾向にあるという指摘です。何かしらの分野で実績を上げて「自分が偉い」と思っている人は、自分の考えを曲げられるのを嫌うため、この場に来て「自分とは違う」と言われると、単純に「他人の意見を聞くか聞かないかの人格の問題」として合わない可能性があると語られました。 これに対し、ある参加者からは、自身がChatGPTなどを使い考えを深める中で、「正論だと思ってしまう自分」や「考えに酔ってしまう自分」がいて、それが「頭がいいけど我を曲げない、自分の意見が絶対だと思う付けの強い人間」になってしまうことへの危機感があり、それになりたくないからこそ、多様な意見に触れるために哲学カフェに来ているという率直な意見も出ました。
現状に「満足している」人も少ない
また、現状に「完全に満足している」と感じている人は、自ら変化を求める必要がないため、哲学カフェのような場には足を運ばない傾向があるようです。周囲を見渡すと、現状に満足している様子の人も多くいるため、哲学カフェのような場所に来る人は、何かしらの「したいこと」や「満たされていない部分」を抱えていることが多いという考察がなされました。
「普通」を装い、自分を隠す人々
さらに議論が進む中で、自分の真の姿や思考を「隠そうとする」傾向が強い人も、この場所にはあまり来ないという興味深い考察がなされました。社会において「普通」と見られたいという意識から、自分の多面性や、時に社会の規範から外れるような興味・思考を隠そうとする人々は、哲学カフェのような場で本音をさらけ出すことをためらうのかもしれません。
では、哲学カフェに「集う」人々とは?:内なる探求と変化を求める魂
では、一体どんな人々が哲学カフェに強く惹きつけられ、集まってくるのでしょうか。議論の中で、いくつかの共通する傾向が見えてきました。
「誰かと深い話をしたい」という切実な欲求
最も多く挙げられた動機は、「誰かと深い話をしたい人」というものでした。参加者の一人は、自分自身があまり表立って本心を語るタイプではないため、「こういう話をする」という前提の場がないと話さないと述べました。
友人との会話では、深い話を振ると「異質なもの」として見られたり、「え、何言ってんのこいつ?」という反応をされたりすることに悲しさを感じている人もいるようです。現代のコミュニケーションでは「共感が一番求められている」と感じる人もおり、表面的な共感だけで対話が成り立ってしまう状況に物足りなさを感じ、「もっと深いところまで踏み込んで語り合いたい」という強い願望を持っている人が多く集まります。
しかし、深い話は相手が一緒に深くまで来てくれるか分からないため、なかなか実現しにくいのが現実だと語られました。
「現状に満足しておらず、自分に納得がいっていない」人々
次に共通して見られたのは、「現状に満足しておらず、自分に納得がいっていない人」です。これは、単なる不満というよりも、より本質的なギャップを指します。 具体的には、私たちは基本的に「資本主義の土台」の上に生きており、社会を最適化しようとすると、どうしても「資本が求めるもの」を追い求める形になるという認識が示されました。
株主の意向や会社の成長を求められる一方で、「それは社会の都合であって、自分の都合とは全然関係ない話」だと感じている人がいます。頭では「それが正解ではない」と分かっていながらも、どうしてもお金などを求めてしまう自分に「気持ち悪さ」を感じ、「自分は本当はどう目指したいんだろう?」という問いへの答えが見つからず、言語化できていない状態にあると語られました。このような内面の葛藤を抱えている人が、そのモヤモヤを言語化し、解消したいという思いで哲学カフェに訪れるようです。
「視野を広げたい」「自分を変化させたい」という願望
哲学カフェには、「視野を広げたい」「自分を変化させたい」という強い願望を持つ人も多く見られます。彼らは、自分の考えに囚われず、俯瞰的に物事を見るために、多様な意見に触れることを求めています。 例えば、「夢ばかり語る人」は、自分の夢(例:ハワイでの結婚式)が大好きだからそれしか語らないが、そこには「ハワイが好きではない人」の視点が欠けている。
哲学カフェに来る人々は、そのような狭い視野に留まらず、他者の感情を読み取れるような「視野の深さ」を身につけたいと願う人々だと分析されました。自己肯定感が低かった人が、この場に来ることで少し上がったと感じるケースもあるようです。
「個性的な人々」の集い
参加者の傾向として、MBTIで内向的(I)・直観的(N)・知覚的(P)なタイプが多いという話が出たり、あるいはADHD、ASD、HSPといった、いわゆる「個性的」な傾向を持つ人々が多いのではないかという意見も出ました。これらの特性は「他とずれている」と言われがちですが、むしろそれが哲学カフェに「色」を与え、「普通の人が来たら真っ白なグループ」になるだろうが、個性的な人が来るからこそ魅力的になると肯定的に捉えられています。
「自分の意見を作りたい」という探求心
自分の考えや価値観がまだ曖昧で、「自分がない」「オリジナリティがない」と感じている人、あるいは「他人軸」で物事を捉えがちな人も哲学カフェに足を運びます。彼らは、「自分の意見を作りたい」という強い探求心から、この場で多様な考えに触れ、自己を形成しようと試みているのです。
なぜ「哲学カフェ」という場なのか?:心理的安全性と本音の避難所
「自分を変化させたいなら他の場所でもいいはずなのに、なぜ哲学カフェなのか?」という問いに対し、参加者からはこの場が持つ独特な価値が語られました。
「認められたい気持ちと否定されたい気持ちが半々」の場
参加者の一人は、自分の考えを話して「認められたい」という気持ちと同時に、「否定されたい」という気持ちも半々で持っていると述べました。友人との会話では、否定されると関係性が崩れたり、傷ついたりする可能性がある。しかし、哲学カフェのような「全く知らない人」との場であれば、「否定されてもお互い傷つかない」という「心理的な安全性」があるため、安心して意見をぶつけ合うことができるのです。
「同調圧力」がなく、自由に語り合える空気
哲学カフェの大きな魅力は、「変な同調圧力がなく、予定調和を乱してもいい雰囲気」があることです。一般的な集団では、場の和を乱さないことが求められることが多い中、ここでは自由に、そして率直に意見を述べることができます。
「社会や職場では語れない秘密の花園」としての役割
哲学カフェは、参加者にとって「社会や職場では語れない秘密の花園」のような場所という側面も強く持ち合わせています。会社は「資本主義の論理でお金を稼ぐ」という明確な目的を持つ組織であり、哲学的な話はその目的とはずれるため、わざわざ話題にすることはないと語られました。また、職場の人間関係では、深い話をする相手を選ぶ必要があり、基本的には「信頼できる人間関係」でなければ本音を語ることは難しいと感じるようです。
さらに、多くの参加者が、職場の人々には哲学カフェに通っていることを「絶対に言わない」と語りました。その理由として、「怪しい組織に行ってる奴とか、変な人って思われるのが嫌だった」という意見が示され、これ「人間社会の中で村八分にされないための人間の本能」であると分析されました。 この傾向は、普段「普通」であるために「多くを隠そうとする人」が、その隠された部分(例えば「ハプニングバー」に通うような趣味)を吐き出す場所を求める心理と共通していると考察されました。哲学カフェもまた、このような「言いづらい」本音や探求心を安心してオープンにできる、一種のプライベートな空間として機能しているのです。
「普通」という問い:隠された自己と対話の価値
議論は、「普通の人とは何か?」という深遠なテーマにも及びました。
「普通」の定義の難しさ
「普通」という言葉の定義は非常に難しいという認識が共有されました。例えば、「普通に大学を出て、普通に安定した会社に就職し、普通に結婚して、普通に子供を作り、普通に家庭を築く」といった「ライフステージ」を指す場合がある。しかし、参加者からは「誰もが何かしら『変』な部分を持っている」「みんな何かしら変ですよね」という共通認識が生まれました。 「普通な個性」とは何かという問いに対しては、「物静かで謙虚で、人の意見をしっかり聞くような万人受けする人」がイメージされるが、そのような人でも「夜一人で人に知られちゃいけないようなお店に足を運んでいる」可能性もあると指摘されました。
「隠す」ことと「普通」であること
この議論から示唆されたのは、「普通に見られたいから多くを隠そうとする人」が「普通」と定義されがちであるということです。他者に「不快」な思いをさせないか分からないという不安から、より多くを隠そうとする保守的な人と、そこまで隠さなくていいと考える楽観的な人がいると分析されました。 哲学カフェに来る人々は、そのような隠された部分、あるいは社会的な価値観の中では「言いづらい」とされる欲求(例えば深い対話への欲求)を、この「秘密の花園」のような場所でオープンにできる人々であると言えるでしょう。
まとめ:哲学カフェが提供する「本音の避難所」
今回の哲学カフェの議論を通じて、普段の生活では満たされない「深い話をしたい」という切実な欲求、「現状に納得していない」という内面のギャップ、そして「視野を広げ、自分を変化させたい」という成長への渇望 を抱える人々が、この場に集まっていることが浮き彫りになりました。哲学カフェは、そのような人々が「心理的な安全性を感じながら、自由に本音を語り、多様な意見に触れ、自己を深掘りできる特別な場所」であると言えるでしょう。そこには、他者からの評価や社会の期待に縛られず、純粋な好奇心と探求心に基づいて、自身の内面と向き合い、他者との本質的な対話を楽しむことができる空間が広がっています。
それはまるで、普段はそれぞれ異なる役を演じる俳優たちが、劇場の幕が下りた後に集い、素顔で互いの役作りの苦悩や人生観について語り合える楽屋のような場所なのかもしれません。ここでは誰もが「普通」という枠に縛られず、真の自分と向き合い、他者との対話を通じて新たな気づきを得ることで、自己を深めていくことができるのです。