100年後も変わらないものは何か?「人間の本質」と未来予測を探求する。(2025/9/28)

この記事の目次

AIの進化、目まぐるしく変わる社会情勢。私たちは「変化」の激流の中にいます。「10年後、仕事はあるのか?」「30年後、社会はどうなっているのか?」——そんな未来への不安や期待が渦巻く中、あえて私たちは一つの問いを立てました。

「100年後、30年後も変わらないものは何か?」

これは、先日開催した哲学カフェのテーマです。変化が早い時代だからこそ、変わらない「本質」を見つめることに価値があるのではないか。そんな思いから始まった対話の場でした。

この記事では、その哲学カフェで交わされた議論や気づきを、開催報告としてお届けします。テクノロジー、身体、仕事、そして生命。多岐にわたるトピックから見えてきた「100年後も変わらないもの」のヒントとは何だったのでしょうか。

なぜ今「100年後も変わらないもの」を問うのか?

今回のテーマのきっかけは、ある参加者が紹介してくれたGoogleの「歯ブラシテスト」というエピソードでした。

Googleが新しい事業を考える際、「100年後、どんな新しいことができるか?」と未来を予測するのではなく、「10年後も20年後も“変わらないもの”は何か?」から逆算するそうです。例えば、「Gmail」が生まれた背景には、「人は10年後も20年後もメール(連絡)をしているだろう」という確信があったといいます。

歯ブラシが1日に2〜3回使われるように、人々が日常的に、そして長期的に使い続けるであろう「変わらないニーズ」は何か。そこから逆算して考える。

この視点は、AIの登場で「今」が揺らいでいる私たちにとって、非常に示唆に富むものでした。未来を予測するのではなく、変わらない「本質」や「土台」を探ること。そこから、私たちが今何をすべきかが見えてくるのかもしれません。

100年前(1925年)の世界は「今」とどう繋がっているか?

「100年後」を考えるヒントとして、私たちはまず「100年前」に目を向けました。今から100年前、1925年(大正14年)はどんな時代だったのでしょうか。

ラジオ放送開始、量子力学の発見…100年前の「当たり前」

参加者で調べてみると、驚くべき事実が次々と浮かび上がりました。

  • 政治:普通選挙法治安維持法が同年(1925年)に成立。民主化への前進と統制強化の芽生えが同時に起こっていた。
  • 技術:テレビの実験放送がイギリスで始まった(一般家庭にはまだない)。日本ではラジオ放送が開始された。
  • 科学:ハイゼンベルクが「行列力学」を発表。量子力学の幕開けとなった。
  • 文化:チャップリンのサイレント映画『黄金狂時代』が公開。日本では谷崎潤一郎が『痴人の愛』を発表。
  • 社会:2年前(1923年)には関東大震災が起こっている。

100年前、テレビはまだ実験段階で、ラジオという新しいメディアが始まったばかり。今私たちが「AI」に感じているような興奮と戸惑いが、当時の「ラジオ」や「テレビ」にあったのかもしれません。

100年前の基礎研究が、今のAI社会を形作っている

特に注目すべきは、100年前に生まれた「量子力学」が、現在のAIや量子コンピュータの理論的基盤となっていることです。

当時の基礎研究が100年の時を経て、今まさに私たちの社会を根底から変えようとしています。だとすれば、私たちが「100年後も変わらないもの」を考えることは、決してSF的な空想ではなく、今まさに芽吹いている「未来の種」を見つける作業でもあるのです。

100年前には存在しなかったテレビやインターネットが当たり前になったように、100年後には今私たちが「当たり前」と思っているものが、全く違う形になっている可能性は十分にあります。

対話で見えた「100年後も変わらないもの」候補

100年前の振り返りを経て、対話は「では、100年後も変わらないものは何か?」という本題に移っていきました。参加者からは、人間の根源的な欲求から社会システムまで、様々な「候補」が挙げられました。

① 人間の「身体」と「生理的欲求」(食べる、寝る、出す)

最も多くの参加者が「変わらない」と指摘したのは、人間の「生理的活動」でした。

  • 食べる
  • 出す(排泄する)
  • 寝る(睡眠)
  • 性欲(子孫を残す)

「どんなに技術が進んでも、この肉体がある限り、食べたら出すし、夜は眠くなる。これは変わらないのではないか」。

確かに、縄文時代から続くこれらの行為は、人間のOS(オペレーティングシステム)の根幹です。しかし、ここにも「本当にそうか?」という問いが投げかけられます。

例えば「睡眠」。睡眠は本当に必要か? 「生物は本来、眠ったまま反応するのがデフォルトで、『覚醒』こそが進化の過程で獲得した特殊な状態」という説もあるようです。だとすれば、100年後、薬やテクノロジーによって「覚醒時間」をコントロールし、睡眠が必要なくなる可能性もゼロではありません。

また、「戦争」や「遊び(退屈)」も、人間の根源的欲求として変わらないのではないか、という意見も出ました。これらもまた、私たちの「身体」や「脳」の仕組みに深く根ざしているのかもしれません。

② 「対面」の価値とコミュニケーションの本質

コロナ禍を経てオンライン会議が普及しましたが、「やはり対面の方が話しやすい」という感覚は多くの人が共有するところです。

「100年後、技術が進化してバーチャル空間がリアルになったとしても、マッサージのように『人の手』『人の温もり(オキシトシン)』を求める感覚は残るのではないか」。

マッサージチェアがどれだけ進化してもマッサージ店がなくならないように、ロボットやAIが代替できない「対面」の価値。それは、言語情報だけでなく、非言語的な情報や「気配」のようなものを交換する、人間の本質的なコミュニケーション欲求に根ざしている可能性があります。

③ 「働く」という行為は資本主義を超えて残るか?

働くこと」もまた、100年後も続いているのではないか、という意見が出ました。原始時代から現代まで、仕事の中身は変わっても「働く」という行為自体は続いています。

一方で、「働くのが面倒くさい」と感じる人も多い。このギャップはどこから来るのでしょうか。

対話の中で出たのは、「働くこと=お金を稼ぐこと」と捉えすぎているのではないか、という視点です。

「働くとは、社会に何かしらの『機能』を提供すること」

もしこのように定義し直すなら、資本主義というシステム(お金との交換)が100年後になくなったとしても、「社会的な生き物」である人間が、他者や社会に対して何らかの「機能提供(=働くこと)」をし続ける可能性は高いと言えます。

資本主義自体が100年後どうなっているかも大きな問いです。ある参加者からは「最終的には、人間の無意識(仏教でいう阿頼耶識)のレベルまで資本主義化するかもしれない」という、成田悠輔氏の講演を引いた未来予測も飛び出しました。

④ 子孫を残す「出産」の未来(人工子宮と社会)

「性欲」や「出産」も、根源的な欲求として残るだろうという意見が多数でした。しかし、その「あり方」は大きく変わるかもしれません。

中国で研究されているという「人工子宮」。もしこれが実用化されれば、女性は「産む」という身体的負担から解放されます。少子化対策として、国が「卵子と精子を税金のように徴収し、工場で子どもを作る」という、プラトンの『国家』のような世界が来る可能性も…?

「子どもを産んだら1000万円支給し、育児は社会全体でサポートする」というルールになれば、出産を選ぶ人は増えるかもしれません。中国の一人っ子政策が、実は「罰金300万円(当時の貨幣価値)を払えば2人目も産めた」という話も紹介され、お金(資本主義)が生命の誕生すらコントロールしうる現実が見えてきました。

100年後、「産む」という行為は、「リアルな出産」を望む派閥「人工子宮」で効率的に行う派閥に分かれているかもしれません。人間の趣味嗜好が無限に多様であるように、生命の誕生の仕方にも多様な選択肢が生まれている可能性があります。

テクノロジーは「変わらないもの」をどう変えるか?

対話は、テクノロジーの進歩が「変わらないはずの前提」すらも揺るがす可能性について深まっていきました。

「不死」が実現した時、進化は止まるのか?

「あと40〜50年で、医療の進歩(寿命が延びるペース)が人間が死に近づくペースを上回り、理論上『不死』が可能になる」という話が紹介されました。

もし私たちが死ななくなったら?

当然、子どもを増やすことは規制されるでしょう。そして何より、「進化」はどうなるのでしょうか? 生物は世代交代(死と誕生)によって環境に適応し、進化してきました。不死は、生物としての人間の「進化」の停止を意味するかもしれません。あるいは、エピジェネティクスのように「生まれた後に遺伝子を操作する」技術が、新たな「進化」の形になるのでしょうか。

「写真」は残る?ローテクとコストパフォーマンスの視点

30年前(1995年頃)を振り返ると、Windows 95が登場し、ポケベルが主流でした。MDやフロッピーディスクのように、30年で消えたものもたくさんあります。

では、「写真」は100年後残るでしょうか?

「残る」という意見が優勢でした。その理由は、「ローテクでコスパが良いから」です。

動画で記憶を残すのが主流になっても、動画をすべて見るにはコスト(時間)がかかります。一方、写真は一瞬で情報を伝えられます。目的(記憶の保存、情報の伝達)に対して、写真(静止画)は非常に効率が良いのです。

「『映ルンです』やデジカメがリバイバルするように、時代は巡る」という意見もありました。主流ではなくなっても、ローテクなりの価値が見直され、伝統芸能のように残り続けるのかもしれません。あるいは、動画の「サムネイル」として、「画像」という概念は残り続けるでしょう。

身体からの解放と「人体教」の始まり

「100年後も変わらないもの」の多くは、私たちが「肉体」を持っていることに起因しています(食べる、寝る、走る、対面)。

では、もし技術がさらに進歩し、移動はすべて自動化され、足腰が不要になったら? 最終的に意識だけがクラウド上にアップロードされ、私たちは「身体の首枷」から解放されたら?

その時、人間の「本質」はどうなるのでしょうか。

対話の最後に出てきたのは、逆説的な未来でした。

「すべてがバーチャルになり身体性を失った時、『人体教』のような宗教が始まるのではないか」。

身体があるからこそ感じられる喜び(美味しい、気持ちいい)や、走ることで得られる爽快感。それらを「大事だよね」と再確認し、信仰する人々が現れる。アメリカで「ドント・ダイ(死なない)」ムーブメントが起きているように、身体性を極端に追求する(あるいは懐古する)流れが生まれるという予測です。

まとめ:変化の時代だからこそ「変わらない本質」から逆算する

「100年後」というあまりに遠い未来を考えると、人間の生理的欲求や、せいぜい「戦争」や「娯楽」といった抽象的な概念しか残りませんでした。

しかし、「30年後」であれば、Windows 95やポケベルから現在までの変化を体験している私たちには、もう少し具体的に「変わらないもの」が見えてきます。(例えば「写真」や「パソコンの基本形」は30年変わっていません)

今回の哲学カフェは、100年という壮大な時間軸で「変わるもの」と「変わらないもの」を仕分けする作業でした。

100年後も変わらないものとは、結局のところ、私たちが「人間」であることの根源——身体性を持ち、社会的な生き物であり、意味や娯楽を求め、何かに働きかけ(働き)、未来を憂う——という、非常にベーシックな部分に集約されるのかもしれません。

AIがどれだけ進化しても、私たちがこの「身体」と「社会」から完全に解放されない限り、食べることも、働くことも、対話をすることも、きっと続いているはずです。

変化の激しい時代だからこそ、Googleの歯ブラシテストのように、変わらない「本質」は何かを問い続ける。そんな哲学的な視点こそが、未来を生き抜くための最も確かな羅針盤になるのではないかと感じた対話でした。