私たちは日常の中で「怖い」「不安だ」という言葉を何気なく使っています。しかし、恐怖と不安の違いについて深く考えたことはあるでしょうか。今回の対話イベントでは、この問いを出発点に、参加者同士が自分自身の体験を持ち寄りながら語り合いました。本記事では、その対話の様子と、そこから生まれた気づきをお届けします。
イベントの背景|「怖い」という感情への素朴な疑問
今回のテーマが生まれたきっかけは、ファシリテーターのふとした疑問でした。ある場面で相手が「怖い」と感じて距離を置いてしまう様子を目にしたとき、「人はどんなときに恐怖を感じるのだろう?」という問いが浮かんだそうです。
お化けを見たときの怖さ、初めて社会人になるときの怖さ、告白するときの怖さ、知らない人に話しかけるときの怖さ。一口に「怖い」と言っても、その中身はさまざまです。そこで今回は、参加者それぞれの恐怖体験を共有しながら、「恐怖とは何か」「不安とはどう違うのか」を探っていくことになりました。
参加者が語った「怖い」と感じる瞬間
まずは、参加者一人ひとりが「自分はこういうときに怖いと感じる」というエピソードを持ち寄りました。ここでは、個人が特定されない形で、いくつかの声をご紹介します。
突発的な音への恐怖
「夜道を歩いているとき、後ろから突然バイクの爆音が近づいてくると怖いと感じます。後ろからだと相手が見えないので、どんな人が乗っているのか、自分のすぐそばを通るのかが分からない。その予測できなさが恐怖につながっている気がします」
この方は、前からバイクが来る場合は「こっちによければいい」と対処できるため、それほど怖くないとも話していました。自分で対処できるかどうかが、恐怖の感じ方に影響しているようです。
注目されることへの恐怖
「自己紹介やプレゼンなど、みんなが自分の声を聞いている状況がすごく怖いです。別に死ぬわけじゃないのに、と自分でも思うのですが、それでも怖い」
この感覚に共感する参加者も多くいました。人前で話すことへの緊張は、多くの人が経験するものです。しかし、それを「不安」と呼ぶのか「恐怖」と呼ぶのか。この問いが、後の議論につながっていきます。
未知の存在への恐怖
「家にいるとき、玄関のドアスコープを覗いたら、全く知らない人が2人立っていた。それがすごく怖かった」
「祖父が亡くなったあと、家に骨壺を置いていた時期に、電気が勝手についたり消えたりする現象を家族と一緒に体験した。自分だけでなく、他の家族も同時に見ていたので、余計に怖かった」
これらのエピソードに共通するのは、相手が何者か分からないという点です。幽霊やポルターガイストのような超常現象も、「正体が分からない」からこそ恐怖を感じるのかもしれません。
将来への漠然とした不安
「AIがこれからどうなっていくのか分からないのが怖い。相手が何を考えているのか分からないものに対して、不安が大きくなる」
「今後何が起こるのか分からない、という意味で将来に恐怖を感じることがある」
ここで、「将来への怖さ」は恐怖なのか不安なのか、という疑問が浮かび上がってきました。
恐怖と不安の違いを探る議論
さまざまなエピソードが出そろったところで、対話は「恐怖と不安の違いとは何か」という核心に迫っていきました。
共通点:予測可能性とコントロール
参加者の体験を整理すると、恐怖を感じる状況にはいくつかの共通点が見えてきました。
- 予測可能性がない:次に何が起こるか分からない
- コントロールできない:自分の力で状況を変えられない
- 身の安全が脅かされる:自分に危害が及ぶ可能性を感じる
これらは、恐怖だけでなく不安にも当てはまりそうです。では、両者の違いはどこにあるのでしょうか。
仮説①:予測可能性の程度の違い
「不安はある程度予測できるけど、具体的に何が起こるか分からない状態。恐怖は、一歩先も一秒先も何が起こるか全く予測できない状態ではないか」
この視点では、予測可能性の「程度」によって不安と恐怖が分かれることになります。しかし、この定義だと「将来」は最も予測できないはずなのに、多くの人は将来に対して「恐怖」というほどの感情を抱いていない、という反論も出ました。
仮説②:感情の強弱の違い
「結局、不安と恐怖は同じベクトル上にあって、強弱の違いなのではないか。弱ければ不安、強ければ恐怖」
この見方は、プレゼンへの怖さを例に議論されました。「死ぬわけじゃないのに怖い」と感じるのは、その人にとって失敗することへの恐れが非常に強いから。つまり、同じ状況でも人によって不安と感じるか恐怖と感じるかが変わる、という考え方です。
仮説③:身体的危険 vs 精神的危険
「恐怖は身体的な危険が迫っているときに感じるもの。不安は、精神的なダメージや将来の不確実性に対するもの」
しかし、プレゼンで感じる怖さは身体的危険ではありません。この仮説だけでは説明しきれない部分があることも分かりました。
仮説④:対象が明確か曖昧か
「恐怖は対象が目の前にあるとき。不安は、まだ起きていないことへの反応」
この定義は、心理学的な区分とも近いものがあります。ある参加者がAIに聞いてみたところ、「恐怖は目の前に実際に現れた脅威への反応、不安はまだ起きていないことへの反応」という説明が返ってきたそうです。
思い込みが身体に与える影響
議論の中で、興味深い実験の話題も出ました。
「目隠しをした被験者に『今から熱した鉄を当てるよ』と伝え、実際にはただの木の棒を当てる。すると、被験者の皮膚には本当に火傷のような跡ができることがある」
これは、恐怖という感情が身体反応を引き起こす例です。脳が「危険だ」と認識すると、実際には危険がなくても身体が反応してしまう。この話から、「分かっている恐怖」もまた強烈であることが確認されました。
恐怖と不安の違いを考えるうえで、脳と身体の関係、そして思い込みの力は無視できない要素です。
恐怖は克服できるのか
対話の終盤では、「恐怖は経験を重ねることで薄れていくのか」という問いも取り上げられました。
「スピーチが怖い人も、何十回と経験すれば慣れていく。やったけど安全だったという経験を繰り返すことで、脳は再学習する」
「でも、高所恐怖症の人は何度高いところに行っても怖いまま。克服しにくい恐怖もあるのでは」
この議論から見えてきたのは、恐怖にもグラデーションがあるということです。経験によって和らぐ恐怖と、根深いトラウマに基づく恐怖では、対処の仕方も異なるのかもしれません。
対話を終えて|明確な答えよりも大切なこと
今回の対話では、「恐怖と不安の違い」について明確な結論には至りませんでした。しかし、それでよいのだと思います。
哲学的な対話の醍醐味は、答えを出すことではなく、問いを深めることにあります。参加者それぞれが自分の体験を振り返り、他者の視点に触れることで、「怖い」という感情への理解が少しずつ広がっていく。その過程こそが、この場の価値です。
ある参加者は、こんな感想を残してくれました。
「想像できないことには恐怖を抱きようがない。だからこそ、想像して身の危険を感じるものに対して恐怖を抱くのだと気づいた」
また別の参加者は、「結局、恐怖も不安も、将来やってくるかもしれない苦痛への備えとして、身体が反応しているのだと思う」と語っていました。
まとめ
今回の対話イベントでは、「恐怖と不安の違い」という身近でありながら奥深いテーマを扱いました。参加者の皆さんからは、「自分の感情を言葉にする機会になった」「他の人の視点を聞いて新しい発見があった」といった声をいただいています。
このような哲学的な対話の場は、日常ではなかなか持てないものです。次回も、身近な問いから出発して、一緒に考えを深めていける場をつくっていきたいと思います。

