「幸福は最上級の価値なのか?」を深掘り2025年6月21日の朝活

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今回の朝活3.0の哲学カフェでは、「幸福は最上級の価値なのか?」という問いをテーマに、参加者の皆さんと深く掘り下げた議論を交わしました。

自己啓発本の「幸福」の前提から、現代社会における幸福の「押し付け」問題、そして個々人が見出す幸福の形まで、多角的な視点から活発な意見が飛び交いました。本稿では、その白熱した議論の模様を報告します。

現代社会が「幸福」を強制する?:疑問から始まった議論

議論の口火を切ったのは、「なぜ常に幸福が前提として目的に置かれるのか」という根本的な問いでした。参加者の一人は、自己啓発本が幸福を大前提としていることに触れつつ、「そもそもそれが無条件で共通認識とされていることに疑問を感じる」と述べました。さらに、「私たちの幸福は、資本主義の中で、誰かの犠牲の上に成り立っているのではないか」という鋭い指摘も飛び出しました。

この問題提起に対し、「現代社会が幸福を強制してくる」という意見が共有されました。ある参加者は、歴史的にも「支配者層にとって、人々を最上級の幸せにすることがコントロールしやすい」という考えを披露しました。まるで「天国と地獄」の概念が人々を特定の行動へと誘導するように、「幸福」という概念もまた、人々を特定の価値観に「すり込む」ために使われてきたのではないか、という考察です。

特に、現代においてはSNSがこの「幸福の押し付け」を加速させているという見方が示されました。インフルエンサーや著名人が「これが幸せだ」と提示する基準値が、人々の「幸福」の基準になってしまい、「今の現状の自分は幸せじゃない」と感じさせてしまうことがあると指摘されました。これはまるで、自分が元々幸せだったにもかかわらず、外部からの情報によって「あれ、自分って不幸なのかな?」と考えさせられてしまう、という状態だと言えるでしょう。

「不幸じゃないこと」と「幸福」の境界線、そして多様な幸福の定義

議論は「では、幸福とは何か?」という核心へと進みました。興味深かったのは、「幸福じゃないことが不幸だとは思わない」という意見です。病気であったり、孤独であったりしても、幸せを感じる人はいる。しかし、「孤独が不幸せ」という「すり込み」によって、人々はマジョリティの価値観に流されてしまうという分析がなされました。

参加者からは、様々な「幸福」の定義が提示されました。

  • 内面の豊かさ:お金があってもなくても、日々の生活が充実している状態。例えば、家族を持ったり、仕事をする中で「一日が早く終わる」と感じたり、「楽しい」と思えること。これは「お金とか関係なく、充実しているかどうかが自分の内面にある」という認識でした。
  • 不安を感じない状態、または不安に立ち向かえる状態:やるべきことが明確で、それに向かって取り組めている状態。不安があったとしても、それに取り組めている感覚が幸福につながるという見方です。
  • やりたいことに取り組めている状態:自分の気持ちが前向きになり、理想とする場所にたどり着くためにやるべきことに邁進している状態。

一方で、「そもそも自分が幸せかどうか、基本考えないタイプ」という参加者もいました。彼らは、幸福かどうかを常に意識することが、かえって「人生を悲観的にする」要因になりかねないと示唆しました。幸せになろうと意識するあまり、現在の自分には幸福が「足りていない」と仕掛けられているような感覚に陥ってしまう、という洞察は非常に示唆に富んでいました。

幸福を「語る人」への疑義:マーケティングとしての幸福

議論の中で特に盛り上がったのは、「幸福とか言ってる人って、自分に対して仕掛けてきてますよね?マーケティングしようとしてますよね?」という気づきでした。

ある参加者は、フェラーリを乗り回す20代の富豪の知人の話を紹介しました。その知人は、「自分のような一般庶民が『貧乏でも幸せ』と言うのは、上の世界を知らないからだ」と語ったそうです。しかし、この発言に対し、「お金がなくても不自由なく暮らせている人もいる。お金がないから幸せだと定義するのはおかしい」と強い疑問が呈されました。このエピソードは、「お金持ち側の論理の押し付け」であり、他人の幸福を勝手に定義することへの反発を生みました。

さらに、別の話として、お金は「感情の増幅装置」であるという考えが紹介されました。つまり、「今この瞬間に幸せな人がお金を持ったらもっと幸せになるし、不幸な人がお金を持ったらもっと不幸になる」というものです。これは、お金そのものが幸福を生むのではなく、既存の感情を増幅させるに過ぎないという視点であり、幸福とお金が直接的に結びつかない可能性を示唆しています。

実際に、先述の富豪の知人が「お金はあるけど、友達もいないし他に何もない」と不幸せそうに見えたという証言もありました。

また、「幸福の4要素」を提示し「幸福を広める」活動について議論が及びました。例えば、「関わっている人が多い方が良い」という要素と「多様性を目指しましょう」という要素が同時に提示されると、「全く矛盾していないか?」と感じるという指摘がありました。多様性を認めるのであれば、多くの人と関わることが好きではない人もいるはずであり、そのような基準を設けることは、結局「それに沿っていない人」を否定し、不十分だと感じさせてしまうことにつながります。

これはまさに、幸福を語る側が、意図せずとも自らの価値観を「押し付け」、一種の「マーケティング」を行っている可能性を示唆していると言えるでしょう。

哲学カフェでの結論:「幸福は他人に押し付けない」

白熱した議論の末、今回の哲学カフェでは一つの大きな結論に達しました。それは、「幸福を他人に押し付けない」というものです。

参加者からは、「最上の価値であってもいいけど、なくてもいい。それは、自分が決めればいいこと」という意見が出されました。幸福の価値を他人に「押し付けられるから反発したくなる」のであり、もし押し付けられなければ、それが最上級の価値かどうかすら考える必要はない、というのです。

最終的に、「自分の幸福は自分の中で完結させる」という共通認識が生まれました。

私たちは、時に「もっと上を目指せ」「もっと幸せになれるはずだ」というメッセージに囲まれています。しかし、真の幸福は、他人の基準や社会の期待に縛られることなく、自分自身で定義し、見出すものなのかもしれません。他者に幸福を押し付けず、また他者からの幸福の押し付けにも距離を置くこと。これが、多様な価値観が共存する現代社会において、一人ひとりが自分らしく生きるための重要な鍵となるでしょう。

まるで、自分だけの庭を育てるように、幸福もまた、それぞれの心の中で大切に育むべきものなのかもしれません。他人の庭を羨んだり、自分の庭のあり方を他人に指図されたりするのではなく、自分にとって心地よい花や木を植え、その成長を静かに見守る。そんな姿勢こそが、私たちを本当の意味での「充実」へと導くのではないでしょうか。

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