先日開催した朝の哲学カフェ、今回のテーマは非常に身近でありながら、一度立ち止まると「あれ?」となる、深い問いでした。
そのテーマとは、「共感とは何か?」です。
私たちは日常的に「共感する」「わかる〜」という言葉を使います。しかし、その「共感」は、隣にいる人の「共感」と本当に同じものを指しているのでしょうか?
今回の哲学カフェは、この掴みどころのない「共感」という概念を、参加者の皆さんの具体的なエピソードと共にじっくりと掘り下げていく、非常に刺激的な「対話」の場となりました。SNS、AI、職場、恋愛、家族……様々な場面で顔を出す「共感」の正体とは?
その白熱した議論の様子と、そこから見えてきた多様な「気づき」をレポートします。
今回の哲学カフェのテーマ:「共感」とは何か?
「今日のテーマは『共感』です」と投げかけた瞬間、会場は「お、面白そう」「うわ、難しい」という、期待と戸惑いが入り混じったような独特の空気に包まれました。
「共感」という言葉は便利です。相手の気持ちに寄り添うポジティブなニュアンスがあり、コミュニケーションを円滑にする魔法の言葉のようにも思えます。
しかし、本当に私たちは他者に「共感」できているのでしょうか? あるいは、他者に「共感」する必要があるのでしょうか?
そんな根本的な問いから、今回の対話はスタートしました。
「同意」「理解」そして「共感」——言葉の迷宮
対話が始まって早々、参加者の方から非常に重要な指摘が飛び出しました。
「共感と『同意』って違いますよね?」
確かに。私たちはこの二つを混同しがちです。対話はここから一気に深まっていきました。
意見か、感情か
「意見に同意するか、感情に共感するかってことかな」 「理解は頭でするもの。同意に近いかもしれない」
例えば、「仕事辞めたい」と友人に言われた時。
- 理解:「なるほど、君は今、仕事のこういう理由で辞めたいと思っているんだね」(状況や論理の把握)
 - 同意:「うん、その状況なら辞めるべきだ。私もそう思うよ」(意見への賛同)
 - 共感:「そっか、今すごく辛いんだね。その気持ち、わかるよ」(感情の共有・受容)
 
このように整理してみると、似ているようで全く違うベクトルを向いていることがわかります。「その気持ちわかるよ」という言葉は、一体どのレベルで発せられているのか。自分が発する時、あるいは受け取る時、その意味合いは大きく変わってきそうです。
「本当に相手の気持ちや感情に対して同じように感じるのが共感だとしたら、私、人と喋ってるとき、死ぬほど共感してるかも」という声もあれば、「いや、それは『共感してるフリ』かもしれない」という意見も出ました。
「共感」とは、かくも多義的で、曖昧なものなのです。
SNSの「いいね!」は共感か?AIは共感できるか?
現代のコミュニケーションを語る上で欠かせないのが、SNSとAIの存在です。対話は自然と、テクノロジーと人間の感情の関係へとシフトしていきました。
Twitter(X)と承認欲求
「Twitterの『いいね』って共感ですかね?」
ある参加者は、ぼんやりとした不安を整理するために、思考をアウトプットする場としてTwitter(現X)を使っていると言います。そこに押される「いいね」。
「自分の投稿を見てくれたんだな、とは思うけど、そこに感情(共感)があるかは興味ないかも」
SNSの「いいね」やリアクションは、必ずしも深い「共感」を示しているわけではなく、むしろ「見たよ」という既読サインや、「仲間だよね」という同族意識の確認、あるいは単なる承認欲求の交換(いわゆる「いいね稼ぎ」)である可能性も高い。そこに本当の感情のやり取りがあるのかは見えにくい、という議論になりました。
ChatGPTとの「対話」
ここで、さらに面白いエピソードが飛び出します。
「最近、ChatGPTに人生相談しまくってたんですよ。『辛かったね、わかるよ』って言われて、『ありがとう!』って(笑)」
会場は笑いと驚きに包まれました。AIは心を持っていないはずです。プログラムされたアルゴリズムに従って、「共感しているように見える」テキストを生成しているに過ぎません。
しかし、相談した本人は「共感してもらった」と感じ、心が救われている。これは一体どういうことでしょうか?
ここから見えてきたのは、非常に重要な視点でした。
「相手が本当に心から共感しているかどうかは、実はどうでもいいのかもしれない。自分が『共感された』と受け取れるかどうかが全てなのでは?」
つまり、共感とは「送受信」の問題であり、送信側(AI)に心がなくても、受信側(人間)がそれを「共感」として受け取れば、その瞬間、共感は成立している(かのように機能する)のです。
「共感って、形さえ整えれば成立するのかも」「人間じゃなくてもいいんだ…」という言葉は、「共感とは何か」という問いの核心を突くものでした。
職場やコミュニティにおける「共感」の力学
対話はさらに、私たちが属するコミュニティ——学校や職場——における「共感」の機能へと移っていきました。
「仲間意識」と共感の強制
「学生時代、共感することで学校に通いやすくなる、みたいなのがあった」
これは「共感」が持つ、「仲間意識の醸成」という側面です。「私はあなたの仲間ですよ」というアピールとして、「わかる〜」という言葉が使われる。時には、本心では共感していなくても、「共感するフリ」をすることで、その場の関係性を円滑にしようとします。
しかし、この力学がネガティブに働くと、「共感の強要」という事態が発生します。
ある参加者からは、体育会系の職場でのこんなエピソードが共有されました。
「上司が『お前、そのカバン、ダサくね? ダサいよな?』って周りに同意を求めてくる。周りも『確かにダサいっすね』って言うんです」
これは、対話ではなく「圧」です。自分の価値観(納得解)を他人に押し付け、「共感を強要」している状態。その小さな箱(コミュニティ)の中では、それが「正解」になってしまう。
「その人も自信がないから、他人に同意を求めて安心したいんだろうな」「その人も若い頃、同じようにやられてきたのかも」という分析も出ました。共感の強要は、時として連鎖し、歪んだコミュニケーションスタイルとして定着してしまう恐ろしさがあります。
イメージ戦略と「裏切られた」という感情
さらに話題は、政治家や芸能人のスキャンダルにも及びました。
「政治家の不倫って、政治能力と関係ないのになんであんなに叩かれるんだろう?」 「あれは、私たちがその人に抱いていた『イメージ』を裏切られたからじゃないか」
私たちは、対象(政治家、芸能人、あるいは友人や上司)に対して、無意識に「こういう人であってほしい」というイメージ(期待)を抱いています。そのイメージから外れる行動(=共感できない行動)を取った時、「裏切られた!」というネガティブな感情が湧き上がり、それが攻撃につながるのではないか、という考察です。
「最初から『悪いところ』も見せていれば、裏切られることはない。愛嬌があるってそういうことかも」
「共感できるかどうか」は、相手の能力や本質だけでなく、私たちが勝手に作り上げた「イメージ戦略」に大きく左右されているのかもしれません。
「素の自分」は存在する?——ペルソナと文人主義
職場で「共感のフリ」をする自分。SNSで「いいね」を押す自分。AIに癒される自分。私たちは、場面によって様々な「自分」を使い分けています。
「私、まだ自分の『素』がわからない」 「静かな友達といる時は静かになるし…それって普通?」
この流れから、「本当の自分(素の自分)とは何か?」という、もう一つの大きな哲学的問いが立ち上がりました。
「キャッチのバイトをしてた時、無理やり口角を上げて『第2の自分』を演じてた」 「着ぐるみの中に入ると、全く別の自分になる」
こうした「演じている自分」は、「素の自分」ではないのでしょうか?
ここで、「文人主義」という考え方が紹介されました。これは、心理学でいう「ペルソナ(仮面)」とは少し違い、「会社の自分」「友達との自分」「一人の自分」など、環境に応じて現れる複数の自分が、「どれも本当の自分である」と捉える考え方です。
環境に適応して変化する自分。それは「嘘」や「演技」なのではなく、その状況下における「素」の反応なのかもしれません。
「共感」を考えることは、巡り巡って「自分とは何か」を考えることにもつながっていく。哲学対話の醍醐味がここにありました。
まとめ:答えのない「問い」を持ち帰る
あっという間の対話の時間。「共感とは何か?」という問いに、明確な答えは出ませんでした。それでいいのです。
哲学カフェは、一つの正解を導き出す場ではありません。参加者それぞれの経験や視点を持ち寄り、対話を通じて「問い」そのものを深め、磨き上げ、そして日常に持ち帰る場です。
「共感」とは、
- 相手の感情と同じ感情を抱くことか?
 - 「あなたの気持ちを理解しようとしている」という態度の表明か?
 - コミュニティを維持するための社会的なツールか?
 - それとも、AIでも代替可能な「型」なのか?
 
おそらく、そのすべてであり、場面によってその側面は変わるのでしょう。
今回の対話を通じて、自分が普段何気なく使っている「共感」という言葉の輪郭が、少しだけハッキリしたような気がします。そして同時に、他者と真にコミュニケーションを取ることの難しさと尊さを、改めて感じさせられました。
次回開催のお知らせ
私たちは、このように答えのない「問い」について、フラットに語り合える場(哲学カフェ)を定期的に開催しています。
「自分の考えを言葉にしてみたい」 「他人の多様な価値観に触れたい」 「日常から少し離れて、思考を深める時間が欲しい」
そんな風に感じている方は、ぜひ一度、私たちの「対話」の輪に加わってみませんか? 次回の開催情報については、当ブログやSNSで随時お知らせしていきます。
ご参加いただいた皆様、刺激的な対話を本当にありがとうございました!