あなたは「自分が好き」ですか?
こんにちは。哲学カフェの運営スタッフです。 先日開催した哲学カフェでは、「プライベートの幸福」という、誰もが一度は考えたことのある普遍的なテーマで対話を行いました。
「あなたは今、幸福ですか?」 「あなたにとって、幸福とは何ですか?」
そんな問いから始まった今回のカフェ。和やかな雰囲気で進むかと思いきや、ある参加者の方の真摯な告白から、対話は「生きづらさと向き合う」という、より深く、切実なテーマへとシフトしていきました。
「私、自分のことが本当に好きじゃないんです」
「決断できない性格が嫌い」「周りの目が気になってしまう」「当たり前のことができない自分がもどかしい」…。 漠然とした不安、自己肯定感の低さ、そしてそこから生まれる「生きづらさ」。 今回の開催報告ブログは、そうした悩みを抱えながらも、対話を通じて一歩を踏み出そうとする参加者の皆さんの「声」と、そこから見えた「幸福へのヒント」を記録したものです。
「私が私で良かった」と思えない…ある参加者の告白(他人軸と自己肯定感)
今回のテーマ「幸福」について、ある参加者(Aさんとします)が口を開きました。
「私の目標は、『私が私で良かったな』と心から思えるようになることです。でも、今はまだ30%くらいしか達成できていません」
彼女は続けます。「正直、自分のことは本当に好きじゃない。むしろ『私じゃなければよかったのに』とさえ思うことがあります」と。
しかし、彼女の周りには素敵な人が多く、「人には恵まれている」と強く感じているそうです。
「周りの人が『素敵な人が集まるのは、Aさん自身が素敵だからだよ』と言ってくれる。そう言ってもらえると、周りの人たちに囲まれている自分のことは好きになれる気がするんです」
一見、自己肯定ができているようにも聞こえます。しかし、彼女の葛藤はここにありました。
「でも、それって結局『他人軸』ですよね。人から評価される私、素敵な人に囲まれている私、という条件付きの自己肯定なんです。そうじゃなくて、他人とは関係なく、私自身を直接好きになりたい」
この「他人軸」の感覚に、他の参加者からも「すごく分かる」「昔はそうだった」と共感の声が上がりました。特に思春期は周りの目線を気にし、人と同じ格好をすることで安心していた、と。中には「一度人に『いいね』と言ってもらわないと、自分でも『いい』と思えない」という方もいました。
「名前のない病気」と、”当たり前”ができない生きづらさ
Aさんの「生きづらさ」には、さらに深い背景がありました。
「私には、5歳の頃から続く『名前のない病気』があるんです」
それは、言葉で説明するのが非常に難しい感覚だと言います。「恐怖」という言葉でも表現しきれない、「余韻が残るもの」に対する強烈な不安感だそうです。
- お寺の「除夜の鐘」(いつ鳴り止むかわからない余韻が怖い)
 - ピアノの特定の低音
 - ビュンビュンゴマ
 - 遊園地のバイキング(乗るのも見るのも、想像するだけで無理)
 
「5歳まではブランコが大好きだったのに、ある日を境に乗れなくなりました」
診療内科にも行きましたが、病名がつかないため、医師もお手上げ状態。ネットでようやく3人だけ同じ症状の人を見つけましたが、彼らも「回転恐怖症」や「余韻恐怖症」と勝手に名前をつけているだけでした。
この感覚は、20代半ばまで誰にも話せなかったと言います。
「こんなことを言ったら引かれるんじゃないか、面倒くさいと思われるんじゃないか。自分でも説明できないものを、他人が理解できるはずがないと思っていました」
この「名前のない病気」は、彼女の日常生活や決断にも影響を与えます。例えば、運転免許は取得したものの、この症状のせいで運転ができない。「人に当たり前にできることが、私にはできない」という感覚が、常に彼女の自己肯定感を蝕んでいました。
なぜ私たちは決断できないのか? 不安症と完璧主義のハードル
Aさんの悩みは、この特有の症状だけではありませんでした。彼女を苦しめるもう一つの要因は、「決断できない性格」でした。
「テストが怖い」「分岐点が選べない」…決断できない性格の正体
「何をするにも、まず不安が先に来てしまうんです」とAさん。
学生時代のテスト期間。楽天的な友人が「まぁ、いっか」と勉強せずに本番を迎えるのに対し、Aさんは「どうしよう、どうしよう」と怖くてたまらなかったと言います。
「容量が悪いし、うまく生きられないな、とずっと思っていました」
この「決断できない性格」は、仕事でも顔を出します。
「ミッションを達成するためにAとBの分岐点を選ばなければならない時、その立場になるのが怖い。誰かに選んでほしい。『あなたが選んでくれたら、私はその後ろを綺麗にするから』って思ってしまうんです」
この告白に、別の参加者から「それ、自分の嫌いポイントになるんだ」と驚きの声が上がりました。
「僕もそういう場面はあるけど、じゃあ決断しなきゃいいし、誰かに任せればいいやって考えちゃう。それで自分が嫌になることはなかった」
Aさんはハッとした表情で答えます。
「私たぶん、『これくらいできなきゃ』という理想が高いのかもしれません」
自分の中に設定された妙に高いハードル。そのハードルを越えられない自分が嫌いになる。この「理想の自分」と「現実の自分」のギャップこそが、生きづらさや自己否定感の源泉の一つなのかもしれません。
決断のハードルを越えた瞬間(アコギと哲学カフェ参加)
そんなAさんですが、最近大きな決断をしたと言います。それは「アコースティックギターを買ったこと」。
先ほどの「名前のない病気」の話を思い出してください。彼女は「余韻」が苦手です。そのため、エレキギターの音がどうしても合わなかった。でも、アコギの「ポロン」という音は好きだと感じたのです。
「でも、アーティストを目指すわけでもないし、こんな中途半端な気持ちで始めてもいいんだろうか…」
またしても、決断の前で足がすくみます。そこでAさんは、匿名でネット相談をしました。返ってきたのは、こんな言葉でした。
「最悪、高級なインテリアになってもいいじゃないですか」
その言葉に背中を押され、彼女はギターを買う決断ができました。「やりたいという気持ちは、全然中途半端じゃないよ」と言ってもらえた気がしたのです。
そして、彼女はこう続けました。
「実は、今日のこの哲学カフェに来るのも、私にとってはすごく大きな決断でした。昨日もずっと『どうしよう』って不安で…」
「来てくださってありがとうございます」と主催者が伝えると、彼女は「こちらこそ。本当に来てよかったです」と微笑みました。彼女が感じていた「生きづらさ」や「決断への恐怖」は、決して特別なものではなく、多かれ少なかれ誰もが持っている感覚。それを「分かるよ」と受け止めてくれる場が、哲学対話の空間だったのかもしれません。
哲学対話で見えた「生きづらさ」との向き合い方
対話は中盤、Aさんのキャリアの悩みへと移りました。「心理学を学んでいたけれど、専門家としての知識がないから一歩が踏み出せない」というのです。
ここで、ITエンジニアでありAIの専門家として活動する参加者(Bさんとします)から、全く違う視点が提示されました。
視点の転換:「専門家」とは「言ったもん勝ち」?
Bさんは笑いながらこう語ります。
「僕もITエンジニアですが、サーバー、セキュリティ、フロントエンド…全部完璧に知ってる人なんてほぼいませんよ。大抵の人は『知ってますよ』という顔をして、後で裏で猛勉強するんです」
彼は、2022年にChatGPTが登場した時のエピソードを話してくれました。
「当時、とある施設から講座を頼まれて、『流行ってるからChatGPTの講座をやりますか』と提案したんです。そしてすぐ、自分の名刺に『チャットGPT プロンプトエンジニア』って書きました(笑)」
会場に笑いが起こります。
「だって、知らない人から見たら、ログインすらしたことない人と、毎日触ってる僕とでは、大きな差がありますよね。相手にとって『1知ってる人』も『100知ってる人』も、自分より詳しければ『専門家』なんです」
プロになるには1万時間必要、などと言われますが、ChatGPTが出てまだ数ヶ月。「1ヶ月でプロって(笑)結局、言ったもん勝ちの世界ですよ」とBさんは言います。
「名乗ったら勝ち。まず言ってみる。そしたら、実力は後からついてくる」
この「言ったもん勝ち」の哲学は、完璧な知識やスキルがないと動けない、決断できないと思っていたAさんにとって、衝撃的だったようです。
あなたの4年間は無駄じゃない。キャリアと自信の作り方
BさんはAさんに向き直ります。
「Aさんは心理学をやってたんですよね。僕も昔、化学をやってたから分かるんですが、自分たちが持ってる知識って、周りもみんな知ってると思いがちなんです。でも、一歩外に出たら、誰も知らない。心理学なんて、みんな知らないですよ」
「だって、Aさんが4年かけて学んだことを、僕が今から知ろうとしたら4年かかるんですよ。そこには圧倒的な優位性がある。絶対に仕事になります」
Aさんは、「知識がないからスタートラインに立てないと思っていた。考えすぎていた部分があったと分かりました」と深く頷いていました。
「生きづらさ」や「不安症」は、裏を返せば、物事を真面目に考え、誠実であろうとする姿勢の表れです。しかし、その真面目さが自分を縛り、「これくらいできなきゃ」という高いハードルを生み出していたのかもしれません。時には「言ったもん勝ち」の精神で、まず一歩を踏み出す勇気も必要なのです。
言葉の力が「呪い」を「おまじない」に変える
対話の終盤、話題は「幸福」という概念そのものへと移りました。「そもそも『幸福』なんて言葉を作り出したから、不幸を感じる人が生まれたんじゃないか」という鋭い指摘が出ます。
かつて「寂しい」という言葉がなかった時代、人々はその感情を明確に定義できませんでした。「寂しい」という言葉が生まれた瞬間、「寂しい人」が生まれたように、「幸福」という言葉が、「幸福でない(=不幸な)自分」を定義してしまったのではないか。
ここから、対話は「言葉の力」というテーマに着地していきます。
脳は否定語を認識できない。「反戦集会」と「平和集会」の例
「脳は否定語を認識できない、という話がありますよね」と、ある参加者が切り出します。
有名な「ピンクの像を想像しないでください」という話です。「しないでください」と言われた瞬間、私たちの頭にはピンクの像が浮かんでしまいます。
「これ、『不幸じゃない』って思おうとすると、『不幸』という言葉が頭に浮かんで、そっちに引っ張られるってことじゃないですか?」
この話を受けて、別の参加者がマザー・テレサの言葉を紹介しました。
「私は反戦集会には絶対に行きません。でも、平和集会になら喜んで行きます」
「反戦集会」は、どれだけ戦争に反対していても、「戦争」に対してエネルギーが集まってしまいます。しかし「平和集会」は、「平和」に対してエネルギーが集まる。言葉の選び方一つで、向かう先が全く変わってしまうのです。
「こうなりたくない」から「こうなりたい」へ。生きづらさを手放す思考法
この話は、Aさんが抱えていた悩みとも深く結びつきました。
例えば、「虐待をされて育った人が、自分の子供にも虐待を繰り返してしまう」という悲しい連鎖があります。
「『自分は絶対に虐待する親になりたくない』。そう強く思えば思うほど、『虐待』という言葉(イメージ)に意識が引っ張られてしまうのではないか」
「決断できない自分になりたくない」
「不安症の自分は嫌だ」
「他人軸で生きたくない」
私たちが「生きづらさ」と向き合う時、つい使ってしまうこれらの否定語。しかし、それこそが自分自身を「生きづらい」状態に縛り付ける「呪い」になっていたのかもしれません。
大切なのは、「こうなりたくない」ではなく、「こうありたい」という言葉を選ぶこと。
「決断できる自分になりたい」
「リラックスして物事を捉えたい」
「自分軸で選択したい」
「言葉は『言霊』と言いますが、『呪い』と『おまじない』は、語源が近い(あるいは同じ)とも言われます。言葉が呪いになるか、自分を助けるおまじないになるかは、使い方次第なんですね」という言葉に、参加者全員が深く頷いていました。
まとめ:現状を受け入れ、使う言葉から変えてみる
今回の哲学カフェは、「幸福」というテーマから始まり、「生きづらさ」「決断できない性格」「不安症」といった個人の深い悩み、そして「キャリア論」「言葉の力」という実践的な知恵まで、非常に濃密な対話が繰り広げられました。
Aさんのように「決断できない自分」や「名前のない病気」を抱え、生きづらさを感じている人は少なくないでしょう。
しかし、対話を通じて見えてきたのは、「自分はこうあるべきだ」という高いハードルが、かえって自分を苦しめているという事実でした。
ナルコレプシー(睡眠障害)を抱える参加者が、「卒論発表の時、寝たら記憶が定着するのを利用して、30分覚えて30分寝る、を繰り返して乗り切った」と笑い飛ばしたように、変えられない現状や特性を「嫌う」のではなく、受け入れて「活用する」という道もあります。
完璧な専門家にならなくても、「言ったもん勝ち」でまず一歩を踏み出してみる。
「生きづらさ」を嘆く否定語を使うのをやめ、「こうありたい」という肯定的な「おまじない」を自分にかけてみる。
哲学対話は、答えを一つに決める場ではありません。しかし、参加した誰もが、「生きづらさと向き合う」ための新しい視点と、小さな勇気を受け取った、そんな温かい時間となりました。