「偶然」か「必然」か?転勤、運命、AI時代における幸福の解釈論。(2025/11/15)

この記事の目次

日々の生活の中で、「なぜ自分はここにいるのだろう?」「あの時の選択は正しかったのか?」とふと立ち止まって考えることはありませんか?

今回の哲学カフェのテーマは、そんな人生の根本的な問いに触れる「偶然と必然」
今の自分の状況は、あらかじめ決められた「運命(必然)」なのか、それともたまたま重なった「偶然」の結果なのか。参加者の皆さんと深く、そして楽しく語り合いました。

一見、難しそうなテーマですが、話題は転勤の話からAI(人工知能)、そして「日常を新鮮に楽しむコツ」まで多岐にわたりました。当日の熱気と気づきをレポートします。

開催のきっかけ:「不本意な異動」は偶然か必然か?

今回のテーマ設定の背景には、主催者自身の強烈な実体験がありました。
東京から仙台への転勤。それは当初、希望していたキャリアプランとは異なり、さらに直前の辞令という予期せぬ形でもたらされました。

「最初は『なぜ自分が?』と反発する気持ちもありました。でも、実際に現地で働いてみると、現場仕事ならではの学びがあり、ご飯も美味しく(笑)、結果的に『これでよかった』と納得している自分がいたんです。」

この体験から生まれたのが、「今の自分を作っている要素は、自分自身の選択(必然)なのか、それとも外的な偶然なのか?」という問いです。

私たちは人生を振り返るとき、成功すれば「努力の結果(必然)」と捉え、失敗すれば「運が悪かった(偶然)」と思いたくなるもの。あるいはその逆もあるかもしれません。
この「解釈」について、皆で掘り下げていきました。

対話の展開①:人生はシナリオ通り?それともランダム?

まず議論になったのは、参加者それぞれの「運命の捉え方」です。大きく分けて2つのスタンスが見えてきました。

「自由意志」で切り開く派 vs 「宿命」を受け入れる派

  • 自由意志派:
    「自分の人生は自分でコントロールできると思いたい。その方が希望が持てるし、心地よいから」という意見。たとえ事実がどうあれ、自分の意志で変えられると信じることが生きるエネルギーになります。
  • 宿命(必然)派:
    「大学で生物学を学んでから、すべては物理法則や因果関係で決まっていると感じるようになった」という科学的な視点や、「失敗した時に『これも運命』と思えると気が楽になる」という処世術としての意見も。

面白い気づきだったのが、「必然と捉えるか、偶然と捉えるかは、その人の精神衛生上のバランス調整機能かもしれない」という点です。
すべてが必然だと「逃げ場」がなくなり息苦しい。逆にすべてが偶然だと「意味」が見出せず不安になる。私たちは無意識に、この2つのバランスを取って生きているのかもしれません。

対話の展開②:西洋的な「0と1」と、東洋的な「ご縁」

対話はさらに深まり、文化的背景の違いにまで及びました。

西洋的視点:神のシナリオとデジタル思考

参加者からは、「西洋的な考え方では、絶対的な神が存在し、すべては神の計画(必然)であるという『予定説』に近い感覚があるのでは?」という指摘がありました。
また、現代のデジタル技術(0と1の世界)も、ある意味で「計算可能な必然」を追求する西洋的思想の延長線上にあると言えるかもしれません。

東洋的視点:因縁と曖昧さの受容

一方で、日本を含む東洋的な感覚では、「因縁(いんねん)」という言葉に代表されるように、偶然と必然の境界線が曖昧です。

「田植えをしたから稲が育つ(必然)。でも、日照りや台風が来なかったのは『おかげさま』(偶然)。東洋では、直接的な原因(因)と間接的な条件(縁)が混ざり合って結果が生まれると考えます。だから、偶然も必然もセットなんですよね。」

「生きている」という能動的な西洋感覚に対し、「生かされている」という受動的な東洋感覚。この対比が非常に鮮やかでした。

対話の展開③:AI時代に失われゆく「偶然の楽しみ」

後半で特に盛り上がったのが、AIやテクノロジーと「偶然性」の関係です。

現代は、検索すれば「正解」がすぐに見つかる時代。初めて行く旅行先でも、ストリートビューで景色を確認し、口コミサイトで評価の高い店を選べば、失敗することはありません。
しかし、それは同時に「迷子になる楽しみ」や「予期せぬ出会い(セレンディピティ)」を失っていることでもあります。

  • 「すべてが最適化され、予測可能になると、感動が薄れてしまう気がする」
  • 「知識が増えることで、世界から『不思議』が減っていく寂しさがある」

AIは過去のデータから「必然的な正解」を導き出すプロフェッショナルです。しかし、人生のスパイスとなるのは、計算外の「バグ」や「偶然」なのかもしれません。

日常を新鮮にする視点「ヴジャデ(Vu ja de)」

ここで紹介されたのが、デジャブ(既視感)の逆、「ヴジャデ(未視感)」という概念です。
見慣れたはずの日常の風景を、あえて「初めて見た」かのように新鮮な目で捉え直すこと。AIに頼らず、自分の感覚で世界を再発見するトレーニングが、これからの時代には必要になるかもしれません。

参加者の気づきとまとめ

今回の対話を通じて見えてきたのは、「事実は変えられないが、解釈は自由である」という希望でした。

ある参加者の方のユニークな言葉が印象的でした。

「私は『推し』である神様(=未来の理想の自分)に見られていると思って生きています。だから、サボらず頑張れるし、困難があっても『これは推しからの試練だ』と前向きに捉えられるんです。」

自分の中に独自の「神様(基準)」を持ち、起きた出来事を自分なりに意味づけしていく。
偶然を必然に変えるのも、必然の中に偶然の遊び心を見つけるのも、結局は私たちの「解釈の力」次第なのかもしれません。

【まとめ】

  • 「偶然」と「必然」は対立するものではなく、東洋思想(因縁)のように混ざり合っているもの。
  • AIによる最適化が進む今だからこそ、あえて「わからなさ」や「偶然」を楽しむ姿勢が豊かさにつながる。
  • 過去の出来事が偶然か必然かは、今の自分がどう「納得」するかで決まる。

ご参加いただいた皆様、深い対話をありがとうございました。
次回の哲学カフェでも、正解のない問いを皆さんと一緒に楽しみたいと思います。