「孤独について」:隣に誰かいても孤独? 転勤が不安? 対話で見えた「強欲さ」と「最高のスパイス」

この記事の目次

あなたは「孤独」と聞いて、何を思い浮かべますか?

一人で食事をする寂しさでしょうか。将来への漠然とした不安でしょうか。それとも、騒がしい集団の中でふと感じる疎外感でしょうか。

先日開催した哲学カフェでは、まさにその「孤独について」をテーマに、参加者それぞれの実体験や想いが交わされました。選ばれたテーマの理由は、「年々孤独を感じる」「老後や将来の漠然とした不安がある」「みんなは孤独をどう乗り越えているのか知りたい」という、非常に切実なものでした。

一見ネガティブに捉えられがちな「孤独」。しかし、対話を進めるうちに、私たちはその多面的な姿と、豊かな可能性に気づかされていきます。

この記事では、その日の朝の対話で飛び出したリアルな声や、私たちがたどり着いた「孤独」との新しい向き合い方について、詳しくレポートします。

「孤独を感じているのは自分だけじゃないか」
「どうしようもない寂しさに、どう対処すればいいかわからない」

そんな風に感じている方にとって、何かのヒントになれば幸いです。

なぜ私たちは「孤独」を感じるのか?(将来の不安と人間関係)

カフェの朝。窓から差し込む光の中で、少し緊張した面持ちで自己紹介が始まります。今回のテーマを選んだ参加者は、「見婚(未婚)です」と切り出しました。

「将来どうなっていくんだろう、という漠然とした不安があるんです」

その言葉に、他の参加者も深く頷きます。既婚者であっても、「30年後、今のパートナーと一緒にいる確率ってどれくらいなんだろう」と考えると、決して他人事ではないと言います。結婚していても、していなくても、予測不可能な未来に対する不安は、現代を生きる私たちに共通する「孤独」の源泉の一つなのかもしれません。

4人兄弟でも感じる「漠然とした不安」

面白いことに、「孤独」の感覚は、身近な人間の数と必ずしも比例しないようです。

「私、4人兄弟なんです」という参加者。一見、賑やかで孤独とは無縁そうに思えますが、「それでも孤独を感じる時はある」と言います。年齢を重ねるにつれ、兄弟それぞれが自分の家庭や仕事を持つようになり、昔のように頻繁に連絡を取り合うわけではなくなる。物理的な距離や心の距離が、たとえ血縁であっても孤独感を呼び起こします。

一方で、こんな話も出ました。

「兄が2人いて、2人とも結婚しました。兄が大好きだったので、結婚した時は正直ちょっと寂しかった。でも今は、彼らが幸せなら、それでいいと思えます」

彼女は、兄たちと今でもオンラインゲーム(スプラトゥーン!)でボイスチャットを繋いだり、東京で集まって飲んだりしているそうです。孤独を感じるかどうかは、物理的な近さよりも、「持続するコミュニティを持っているかどうか」が鍵になるのではないか。そんな仮説が浮かび上がりました。

持続するコミュニティと「自発的なつながり」

対話は「コミュニティ」というキーワードを中心に深まっていきます。

兄弟や家族といった「生まれ持った環境」とは別に、趣味(バイク仲間や演劇仲間など)や学びの場といった「自発的なコミュニティ」があるかどうかが、孤独感を大きく左右するのではないか。

大学時代、九州の各県から集まった学生たちとの寮生活を経験した参加者は、「入学式の前から友達ができて、最初から全く孤独じゃなかった」と振り返ります。そこには「地方から都会(熊本)に出てきた」という共通点がありました。

「共通点がある人が周りにいるうちは、孤独じゃないですよね」

新卒の研修期間に同期と強く結束する感覚。しかし、年齢を重ね、結婚、出産、キャリアの変化などで、かつての共通点が薄れていくと、私たちは再び「孤独」と向き合うことになります。

では、コミュニティにさえ属していれば、孤独は解消されるのでしょうか? 対話は、さらに核心的な「孤独」の姿へと迫っていきます。

「集団の中の孤独」と「一人の孤独」はどちらが辛い?

「複数のコミュニティを持つことが大事」という話は、よく耳にします。しかし、なぜ「複数」でなければならないのでしょうか。

ある参加者が、非常に示唆に富む体験を語ってくれました。

「以前は仲が良かったコミュニティがあったんです。でも、今の私と、向こうが大事にしていることが、ちょっと違ってきた。1対1で話せばお互いを尊重し合えるのに、4対1とかになると、数の力で圧力を感じてしまうんです」

誰かが悪いわけではない。ただ、コミュニティが成熟するにつれて「色」がつき、その色に染まれない自分がマジョリティから弾かれていく感覚。これは、会社、友人グループ、あるいは家族の中でさえ起こりうることです。

価値観が合わなくなった時の「息苦しさ」

一つのコミュニティ、一つの価値観だけに依存していると、そこが合わなくなった時に「逃げ場所」がなくなってしまいます。息が詰まってしまうのです。

「みんなといるのに、自分の考えがマジョリティに混じれないと感じる時、すごく孤独を感じます」

この発言をきっかけに、対話は「集団に属すること」と「個人としての繋がり」の違いへと移っていきました。

  • 集団での付き合いの先に、細分化された個人の付き合いがある(ピラミッド型)
  • いや、集団で心地よい人と、個人(サシ)で心地よい人は違う場合もある

人によって、人との距離の取り方や心地よさの尺度は異なります。しかし、共通していたのは、「一つの場所だけでは柔軟性が下がる」という認識でした。

「誰も悪者にしないため」の複数のコミュニティ

価値観がズレてしまった時、「あいつが悪い」「このコミュニティはダメだ」と他者を攻撃したり、あるいは「自分が変わっているんだ」と自己嫌悪に陥ったりするのは、とても苦しいことです。

「誰も悪くないし、誰も悪者にしたくない。そのために、複数のコミュニティを持つことが大事なんだ」

この言葉は、人間関係における「孤独」への、一つの強力な処方箋のように響きました。あっちがダメなら、こっちで呼吸をする。こっちの価値観が合わなければ、あっちの居場所に戻る。そうやってバランスを取ることが、自分自身を守ることにつながるのです。

この気づき(「複数のコミュニティを持つのがいいよ、というのがめちゃくちゃ“ほんまや”と思った」と参加者)は、この日の対話の大きな収穫の一つでした。

実録:「無理して付き合ってた彼氏といた時が一番孤独だった」

そして、対話は「孤独」の最も強烈な形態、すなわち「人がいる孤独」へと行き着きました。

「人が周りにいない孤独と、人が周りにいる孤独。どっちがマシ(辛い)なんだろう?」

一人の参加者が、リアルな体験を打ち明けてくれました。

「20代前半の時、無理して付き合ってた彼氏がいたんです。別れ際、ソファーで隣に座ってるのに、お互いスマホをいじって何も喋ることがない。あの時、めちゃくちゃ孤独でした。2人なのに、結局1人だったなって」

「人が周りにいる孤独」の具体例が、次々と挙がります。

  • 複数人で旅行中、「ああ、一人だったらあそこ行ったのにな」と思う瞬間。
  • 集団の中で意見が分かれ、自分の行きたい場所を諦めるとき。
  • 勇気を出して悩みを相談したのに、「ふーん」と流された瞬間。(あ、この人には通じなかったんだ…)

物理的に一人でいることよりも、「心の繋がりが感じられない」状態のほうが、私たちはより深く「孤独」を感じるのかもしれません。この議論を経て、「人が周りにいない孤独(物理的な孤独)の方が、むしろマシなのでは?」という空気が流れ始めました。

「だって、一人なら何でもできるから。これから誰かと出会えるかもしれないし」

孤独は「乗り越える」ものか「楽しむ」ものか

私たちは「孤独」を、克服すべきネガティブなものとして捉えがちです。しかし、対話の中で、まったく新しい視点が提示されました。

「私、地元があんまり好きじゃなくて、飛び出してきたタイプなんです」

そう語る参加者は、自分を誰も知らない場所や、共通点のない新しいコミュニティに行くのが好きだと言います。あえて「孤独」な環境に身を置く。なぜなら、そこにこそ「楽しさ」があるからだと。

スナフキンの言葉:「人と会わない期間が、会える時間を輝かせる」

彼女が例に出したのは、ムーミン谷の「スナフキン」でした。

スナフキンは、孤独を愛し、冬になると一人で旅に出ます。彼は作中でこう言っています。「人と会わない期間を作ったり、一人で旅をすることで、人と会える時間がすごく輝くものになる」と。

一人で淡路島に旅行中、バスを乗り間違えて待ちぼうけを食らった時、現地のおじさんと何でもないおしゃべりをしたこと。 一人で仙台の松島に行ったら、スペイン人に写真を頼まれ、言葉も通じないのに1時間半お茶をしたこと。

「もし同行者がいたら、気を使ってしまって、そんな自由な行動はできなかった」

一人旅で、予定調和を壊して「地蔵探し」に夢中になれるのも、一人だからこそ。「孤独だと何でもできる」のです。

孤独は最高のスパイスである

この流れで、ある参加者から名言が飛び出しました。

「『空腹は最高のスパイス』って言うじゃないですか。それと同じで、『孤独は最高のスパイス』なんじゃないかなって」

孤独な時間、つまり「人と会わない期間」があるからこそ、人と会えた時の喜びや、偶然の出会いの楽しさが際立つ。いつも人と繋がっていては、その「ありがたみ」も「輝き」も薄れてしまうのかもしれません。

鹿児島に行ったこともないのに、仕事で話す鹿児島弁のイントネーション(福島弁に似ているらしい)を聞くだけで、「故郷に帰ってきた」ような安心感を覚える。そんな「勝手な繋がり」を楽しめるのも、孤独というスパイスが効いているからこそ。

「孤独」は、無理に乗り越えたり、埋めたりするものではなく、人生をより豊かに味わうために「楽しむ」もの。この視点の転換は、参加者全員にとって大きな「気づき」となりました。

環境の変化と「孤独」を掴みに行く強さ

とはいえ、私たちは「望まない孤独」にも直面します。対話の終盤、話題は再び現実的な問題に戻ってきました。

この日の哲学カフェの数日前、ある参加者に「仙台への転勤」の内示が出たのです。しかも、それはキャリアアップのための良い条件(補助が出る、希望の仕事ができる)とセットでした。

しかし、彼女は浮かない顔でした。

「仙台に行くこと自体はいいんです。でも、本当に一番嫌だったのが、ここ(哲学カフェ)に来るのに新幹線に乗らなきゃいけなくなることで…」

知り合いが一人しかいない土地へ行く不安。そして何より、ようやく見つけた「心地よい居場所」を失うかもしれないという孤独感。それは、まさに「孤独について」考える上で、避けて通れないテーマでした。

「仙台転勤でここに来れなくなるのが一番嫌」

彼女のその言葉は、私たち主催者にとって、何よりも嬉しいものでした。(「そこまで思ってくれていたんだ!」と、胸が熱くなりました)

しかし、同時に、環境の変化によって大切なコミュニティとの距離が生まれてしまうという現実を突きつけられます。

彼女は続けます。「もう、こうなったら、私がオンラインでゲームの主催とかやったら、人呼んでくれますか?」「月1で日曜の夜なら東京に戻れるから、ボドゲ会を企画したい!」

その必死な(?)提案に、私たちは「もちろん、その日に合わせて企画しますよ!」「機械を無理やり作りましょう!」と即答しました。

「強欲になれば孤独はどっか行くんじゃないか」

その時、彼女が自ら発した言葉が、この日の対話を総括するものとなりました。

「私、思ったんですけど。孤独を感じたら、こうやって“機会”を掴みに行けばいいんだって」

もう、強欲になればいいんですよ。そしたら、孤独なんてどっか行くんじゃないかって説を、今、提唱します!」

転勤という「孤独」のきっかけを前にして、彼女は「ここに来れなくなる」と嘆く被害者でいることを選びませんでした。そうではなく、「どうすればこの繋がりを維持できるか」「新しい楽しみをどう作っていくか」と、能動的に機会を掴み(創り)に行こうとしていたのです。

その「強欲さ」とも言えるエネルギーこそが、孤独を吹き飛ばす最強の力なのかもしれません。

まとめ:対話で見えた「孤独」の正体と、これからの繋がり

今回の哲学カフェは、「孤独について」という重いテーマから始まりましたが、終わる頃には、参加者全員の表情が明るく、力強いものになっていました。

対話を通して見えてきたのは、「孤独」の多様な側面です。

  • 将来への不安や、人との価値観のズレから生じる「ネガティブな孤独」
  • 集団の中で、あるいは愛する人の隣で感じる、最も辛い「人がいる孤独」
  • そして、スナフキンのように、人との繋がりを輝かせるために必要な「孤独は最高のスパイス」というポジティブな側面。

私たちは、これらの「孤独」すべてと、生涯付き合っていかなければなりません。

大切なのは、孤独をゼロにすることではなく、「複数のコミュニティ」という逃げ場所(居場所)を持つこと。そして、孤独を感じた時には、「どうせ自分なんて」と殻に閉じこもるのではなく、「強欲に」人や機会を掴みに行く姿勢なのかもしれません。

結局のところ、私たちが求めているのは、物理的に誰かがそばにいることではなく、「心の繋がり」なのです。

「実体験が面白かった」 「めちゃくちゃ“ほんまや”と思った」 「孤独から抜け出せるきっかけになりそう」

参加者からいただいた感想が、この対話の価値を物語っています。

もしあなたが今、「孤独」に悩んでいるなら。あるいは、「孤独」をスパイスとして楽しみたいと思っているなら。ぜひ一度、私たちの哲学カフェに、あなたの「孤独」を話しに来てみませんか?

(仙台からのご参加も、心よりお待ちしています!)