「素の自分が出せない」という悩みの正体
「素の自分が出せない」「本当の自分がわからない」——そんなふうに感じたことはありませんか。職場では気を張り、友人の前でも少し演じている気がする。家に帰ってようやくホッとするけれど、それが「素の自分」なのかと聞かれると、正直よくわからない。
先日開催した対話イベントでは、まさにこの問いをテーマに参加者同士が語り合いました。結論から言えば、「素の自分」は一つの固定された姿ではなく、相手や状況によって自然に現れる複数の自分のことだという気づきが生まれました。そして、素の自分を出せるかどうかは、「この人なら受け止めてくれる」という安心感があるかどうかに大きく関わっているということも見えてきたのです。
この記事では、対話の中で出てきた様々な視点をご紹介しながら、「素の自分が出せない」という悩みを紐解いていきます。
対話の始まり——「素の自分」って何だろう?
イベントは、ある参加者のこんな問いかけから始まりました。
「素の自分って、結構変わっていませんか?」
この一言で、場の空気が動き始めます。ある方は「家でリラックスしている状態が素の自分」と捉えていました。一方で、別の方は「特定の状況で反射的に出る行動こそが素」だと考えていました。
興味深かったのは、「素の自分を出せる相手が何人かいるけれど、Aさんに見せる自分とBさんに見せる自分は違う」という発言です。つまり、素の自分といっても、一枚岩ではないのです。自分の性格や感情のうち、この部分を見せる人、別の部分を見せる人がいる。でも、どちらも嘘ではなく、全部が自分なのだという見方です。
これは多くの参加者にとって新鮮な気づきでした。「素の自分」を一つに決めなければいけないと思っていたけれど、実はそうではないのかもしれない。そう思えるだけで、少し心が軽くなったという声も聞かれました。
「無理をしていない」という感覚がカギになる
では、素の自分かどうかを判断する基準はあるのでしょうか。対話の中で浮かび上がってきたのは、「無理をしていないかどうか」という感覚です。
ある参加者はこう言いました。「家にいる姿を見せられるかどうかが、素を出せているかどうかではない気がする。無理をしていないか、という言葉の方がしっくりくる」と。
確かに、私たちは相手や場面によって態度を変えます。それは必ずしも「嘘をついている」わけではありません。上司の前で丁寧語を使うのは、相手への敬意の表れであり、自分を偽っているわけではないでしょう。問題は、その振る舞いに「無理」が伴っているかどうかです。
言いたいことを我慢し続けている。本当はやりたくないのに合わせている。そうした状態が続くと、私たちは「素の自分を出せていない」と感じるのかもしれません。
突発的な場面で「素」が現れるという視点
対話の中で、ユニークな視点も出てきました。それは「突発的なことが起きたときに、その人の素が出る」という考え方です。
たとえば、目の前でコーヒーがこぼれたとします。「あっ、大丈夫?」と咄嗟に声をかける人もいれば、「何やってるんだよ」と反応する人もいる。この瞬間、考える暇がないからこそ、普段意識していない「本来の自分」が顔を出すというのです。
店員さんがミスをしたときにどう接するか。予期せぬトラブルにどう対応するか。相手が誰であっても変わらない反応があるとすれば、それがその人の「素」なのではないかという指摘は、多くの参加者の心に響いていました。
これは裏を返せば、反射的な行動は訓練で変えられるのかという問いにもつながります。緊急事態に備えて訓練を積む人々——たとえば救急隊員や特殊部隊——は、どんな状況でもまず深呼吸をして冷静になるよう自分を訓練しています。そうなると、「素の自分」すら変えられるのでしょうか。
この問いに対して、ある参加者はこう答えました。「訓練しようと思った時点で、それは素じゃないのでは。そもそも訓練する環境に身を置こうと決めたのが、その人の素の部分だと思う」。つまり、どんな自分になりたいかを選ぶ姿勢そのものが、その人の本質を表しているという見方です。
実存主義と「素の自分」——目的なき存在としての人間
対話は次第に哲学的な深みを帯びていきました。ある参加者が、サルトルの実存主義を引き合いに出したのです。
「コップは水を汲むために作られる。つまり、目的があって存在が生まれる。でも人間は違う。人間は目的がなくて、ただ存在としてある」
この考え方に従えば、「素の自分」という本質は最初からあるわけではなく、私たちはその都度、自分を作り上げているということになります。固定された「本当の自分」などなく、瞬間瞬間に選択し、行動している自分こそが自分なのだという見方です。
一見すると、この考え方は「素の自分」という概念を否定しているようにも聞こえます。しかし参加者たちは、この視点に触れることで、かえって気持ちが楽になったと語っていました。
「素の自分を探さなきゃ」と焦るよりも、「今この瞬間の自分が自分なんだ」と思えた方が、生きやすい。そんな感覚が場に広がっていきました。
私たちは最初から「洗脳」されている?
話題は、社会や環境から受ける影響へと移っていきました。
「洗脳される前の自分が素だとしたら、私たちはすでに洗脳されているのではないか」という問いかけです。
大人になったら働かなければいけない。男だったらこうあるべき。三十歳になったらこうしなきゃ。私たちは生まれた瞬間から、親や社会から様々な価値観を刷り込まれています。その影響を完全に排除した「素の自分」を想定することは、果たして可能なのでしょうか。
理論上は、赤ちゃんを誰とも接触させずに育てれば、社会の影響を受けていない人間のデータが取れるかもしれません。しかし、それは倫理的に許されることではありませんし、現実的でもありません。
結局のところ、私たちは社会の中で形成された自分しか知ることができないのです。だからこそ、「素の自分」を探すときには、原初の自分を掘り起こすのではなく、今の自分をどう受け止めるかが大切になってくるのかもしれません。
「素の自分」を出すことは良いことなのか
対話の後半では、「そもそも素の自分を出すことは良いことなのか」という問いが投げかけられました。
これまでの流れでは、素の自分を出せることが肯定的に語られてきました。しかし、ある参加者はこう打ち明けました。「自分の素はあまり良くないものが多いと知っている。学生時代、思ったことをつい言ってしまって、失敗したことが何度もある」と。
素直に振る舞った結果、相手を傷つけてしまった経験がある。だから自分の素を出すことに抵抗がある。そういう方も少なくないでしょう。
この意見に対して、別の参加者からはこんな声が上がりました。「素を出すことと、出し方を考えることは別の話ではないか。素の自分を認めた上で、どう表現するかを選ぶことはできる」。
素の自分を否定するのではなく、受け入れた上で磨いていく。そんな向き合い方もあるのだという視点は、悩みを抱えていた参加者にとって救いになったようでした。
教育者が語る「悪を抜く」という思想
興味深い事例として、ある参加者が教育学者の言葉を紹介してくれました。
その教育者は、教師を目指す学生たちに「悪を抜け」と説いたそうです。偉人の本を読み、自分の中にある未熟さや弱さを取り除いていく。そうして教師としてふさわしい自分を作り上げていくという考え方です。
一見すると、これは「素の自分を出すな」という教えのように聞こえます。しかし別の解釈もできます。役割を担う以上、その役割にふさわしい自分を育てることは、自分を偽ることとは違うのではないか。
「教師になったんだから、もうお嬢ちゃんおぼっちゃんでいるのはやめましょう」という言葉には、役割と自己同一化していくことの大切さが込められていました。
これは社会人になるタイミング、親になるタイミング、様々な場面で私たちが経験することかもしれません。新しい役割を引き受けることで、自分の中の新しい面が育っていく。それもまた一つの自分の姿なのです。
人間関係における「素」——恋愛の場合
対話は、人間関係における素の自分の話へと展開していきました。特に盛り上がったのは、恋愛における素直さの話題です。
ある参加者がこんなエピソードを共有しました。「たとえばデートで、本当は手を繋ぎたいのに、格好つけてポケットに手を入れてしまう。でも素直に『繋ぎたい』と言った方が可愛いし、うまくいくのではないか」。
つまり、素直な自分を見せることが、良好な関係を築く上で大切だという意見です。
一方で、こんな反論もありました。「長期的な関係、たとえば結婚を考えると、『だらだらしたい』という素を全部出すより、ある程度頑張る姿を見せた方が魅力的なこともあるのでは」と。
この議論で見えてきたのは、素の自分を受け入れてくれる相手との関係が、最も安定するということです。格好つけて結ばれても、それを維持するのは大変です。理想は、お互いが素を出しても受け止め合える関係。その安心感があってこそ、無理のない関係が続いていくのでしょう。
「受け止めてもらえる安心感」が素を引き出す
対話を通じて、繰り返し浮かび上がってきたキーワードがあります。それは「安心感」です。
素の自分を出せる相手とは、「この人になら本音を言っても大丈夫」「受け止めてもらえる」という信頼がある相手です。逆に、「こんなことを言ったらどう思われるだろう」と心配してしまう相手の前では、私たちは自然と素を隠してしまいます。
ある参加者はこう表現しました。「後先考えずにパッと出しても、この人なら受け止めてくれるという安心感がある。そういう相手に対してこそ、素の自分が出るのではないか」。
これは非常に重要な指摘です。素の自分を出せないのは、自分の問題だけではない。相手との関係性、環境の問題でもあるのです。
もしあなたが「素の自分を出せない」と悩んでいるなら、まずは自分を受け止めてくれる人が周りにいるかどうかを考えてみてください。そういう人が一人でもいれば、そこから少しずつ素を出す練習ができるかもしれません。
子どもは「素の塊」——大人が学べること
対話の終盤、ふと話題に上がったのが「子ども」の存在です。
「子どもって完全に素の塊だよね」という発言に、多くの参加者がうなずきました。お腹が空いたら食べる、眠たかったら寝る、嫌なことがあったら泣く。一秒先のことなど考えずに、今感じていることをそのまま表現する。
大人になると、私たちは先のことを考えるようになります。「これを言ったら怒られるかも」「嫌われるかも」。そうした予測が、素の自分を出すことを躊躇させるのです。
未来を考えずに今を生きる。それは大人にとっては難しいことかもしれませんが、素の自分とは何かを考える上で、一つのヒントになりそうです。
「迷惑をかけてもいい」という許し
最後に紹介したいのは、ある参加者が共有してくれた文化の違いについての話です。
日本では「人に迷惑をかけるな」と教えられます。しかし世界には、「人に迷惑をかけてもいいから、人を許そう」という教えを持つ文化もあるそうです。
この考え方を広げて解釈すると、自分の素を出しても受け止めてもらえるだろうと思えること、そして他人の素も受け止めてあげること——この双方向の姿勢が、自分を出しやすい環境を作るのかもしれません。
素を出すことは悪いことではない。そう思えるだけで、少し生きやすくなる。対話の最後には、そんな温かい空気が場を包んでいました。
まとめ——「素の自分が出せない」は悪いことではない
今回の対話を通じて見えてきたのは、以下のようなことです。
第一に、「素の自分」は一つに決める必要はないということ。相手や場面によって見せる自分が違っても、それは嘘ではなく、全部が自分です。
第二に、素の自分を出せるかどうかは「無理をしていないか」という感覚がカギになるということ。態度を変えること自体は問題ではなく、その変化に無理や我慢が伴っているかどうかが大切です。
第三に、素を出せる相手は「受け止めてくれる安心感」がある人だということ。素の自分を出せないと悩むとき、それは自分だけの問題ではなく、関係性や環境の問題でもあります。
そして何より、素の自分を出すことが常に正解というわけではないということも、対話の中で確認されました。素を認めた上で、どう表現するかを選ぶこともできる。役割に応じて新しい自分を育てることもできる。
「素の自分が出せない」と悩んでいる方は、まず自分を責めないでください。それは自然なことであり、多くの人が感じていることです。そして、少しずつ、受け止めてくれる相手を見つけ、安心できる場所を増やしていくこと。それが、自分らしく生きる第一歩になるのではないでしょうか。
次回の対話イベントでも、皆さんと一緒に考えを深められることを楽しみにしています。
よくある質問(FAQ)
Q1. 素の自分がわからないのですが、どうすれば見つかりますか?
「素の自分」を一つの正解として探す必要はありません。まずは「無理をしていないな」と感じる瞬間や相手に注目してみてください。リラックスして話せる人がいるなら、その人の前にいるあなたも一つの素の姿です。様々な場面での自分を否定せず、どれも自分だと受け入れることが、自己理解の第一歩になります。
Q2. 素の自分を出したら嫌われそうで怖いです。どうしたらいいですか?
その恐れは自然な感情です。まずは、過去に受け止めてもらえた経験がないか振り返ってみてください。一人でも「この人なら大丈夫」と思える相手がいれば、その人から少しずつ素を出す練習を始められます。また、素を出すことと出し方を工夫することは別の話です。自分の気持ちを認めつつ、伝え方を選ぶこともできます。
Q3. 誰に対しても同じ自分でいることが「素」なのでしょうか?
必ずしもそうとは限りません。相手や状況によって見せる面が変わるのは自然なことです。大切なのは、その振る舞いに「無理」や「過度な我慢」が伴っていないかどうか。突発的な場面での反応が誰に対しても同じだとすれば、それがあなたの一つの素かもしれません。ただ、全員に同じ態度を取ることだけが素の証明ではありません。


