私たちは普段、スーパーに並ぶお肉を当たり前のように購入し、美味しくいただいています。しかし、もしある日突然、テクノロジーの進化や魔法のような出来事によって、「動物の言葉が人間に理解できるようになった」としたら、どうなるでしょうか?
さらに言えば、目の前の豚や牛と「今日はいい天気だね」「昨日はよく眠れた?」なんて会話が成立してしまったら。
今回の哲学カフェでは、そんなSFのような、しかし倫理の核心を突く思考実験をテーマに設定しました。
テーマ:「人間が動物の言葉を理解できるようになったら、肉を食べることは犯罪になるか?」
この問いを出発点に、議論は「言語とは何か」「法律の起源」「歴史における食のタブー」、そして「人間と動物の境界線」へと、驚くべき広がりを見せました。
1. 言語と意識の壁:コミュニケーションが成立すれば「他者」になる
ゴリラ、猫、そして豚との対話
議論の口火を切ったのは、「意思疎通ができるかどうか」という視点でした。
例えば、手話を使って人間と会話ができるゴリラがいたとします。あるいは、家で飼っている猫。飼い主であれば「お腹が空いた」「遊んでほしい」といった猫の言葉(感情)をなんとなく理解している人は多いでしょう。
参加者からはこんな意見が出ました。
- 「飼っている猫の言葉がわかると感じることはある。そうなると、やはり食べるなんて考えられない」
- 「コミュニケーションが取れない人間と、コミュニケーションが取れる豚なら、豚の方に親近感を抱くかもしれない」
- 「言葉を喋っていることと、その意味を理解していることは別ではないか?(中国語の部屋の思考実験のように)」
ここでの重要な気づきは、「食べる/食べない」の境界線は、生物学的な種の違い(人間か動物か)よりも、「意思疎通が可能か(心が通うか)」にあるのではないかという点です。
もし豚が「僕はまだ死にたくない、友達と遊びたいんだ」と人間に語りかけてきたら。調理済みの肉として出てくるならまだしも、そのプロセスを知ってしまったら、多くの人がナイフとフォークを置くことになるでしょう。
歴史に見る「食」の倫理観
話題はさらに、歴史的な「食」のタブーへと展開しました。現代の感覚では信じられないことですが、『水滸伝』のような古典文学や、日本の昔話(カチカチ山の原典など)には、人間を食材として扱う描写が登場することがあります。
- 「昔の中国や飢饉の時代には、生きるために人肉を食べることがあった」
- 「『水滸伝』では、敵を倒してみんなで食べるシーンが宴として描かれている」
- 「カチカチ山も、もともとはお婆さんが狸汁にされる話だった」
これらのエピソードが示唆するのは、「何を食べてよくて、何を食べてはいけないか」という倫理観は、絶対的なものではなく、時代や環境、文化によって大きく揺らぐということです。
現代の私たちが「動物と話せたら食べられない」と感じるのは、私たちがそのような倫理観を持った時代に生きているからに過ぎないのかもしれません。
2. 「犯罪」を決めるのは法律か、それとも空気か?
テーマにある「犯罪になるか?」という問いに対して、議論は「法哲学」の領域へと深まっていきました。ここが今回の対話の非常に面白いハイライトの一つです。
法源はどこにあるのか
「犯罪」とは法律に違反することですが、その法律(実定法)は何に基づいて作られるのでしょうか。参加者からは、イギリスの憲法や日本の「和」の精神を引き合いに、非常に鋭い分析がなされました。
「法律が決めるから犯罪になる」のではなく、「みんながダメだよねという空気が生まれ、それが法になる」という順序です。
- 自然法と慣習: イギリスには「憲法典」がないと言われますが、これは歴史や伝統、過去の判例の積み重ね自体を憲法(国の形)と見なしているからです。「ここにゴミを捨ててはいけない」と書いてなくても捨てないのと同じで、明文化以前の「共通認識」が重要です。
- 日本の「和」: 聖徳太子の十七条憲法にある「和を以て貴しと為す」のように、日本もまた、明文化されたルール以上に「場の空気」や「伝統」を重んじる文化圏と言えます。
つまり、もし動物と言葉が通じるようになり、社会全体が「豚を食べるなんて可哀想だ、おかしい」と共感し始めたら、その空気(自然法的な合意)が形成された時点で、それは実質的に「犯罪」としての性質を帯び始めるのです。
法律はその後に追認として作られるに過ぎない。この視点は、社会の変化を考える上で非常に示唆に富んでいました。
3. 人権、動物権、そして支配のパラドックス
権利は「勝ち取る」ものか、「与えられる」ものか
次に議論されたのは「権利」についてです。人間には人権がありますが、動物に「動物権」はあるのでしょうか?
歴史を振り返れば、人権さえも最初からすべての人間にあったわけではありません。市民革命などを経て、人々が血を流して「勝ち取ってきた」ものです。そう考えると、動物たちが自ら革命を起こさない限り、真の権利は得られないのでしょうか?
ここでジョージ・オーウェルの『動物農場』の話が出ました。動物たちが人間を追い出して理想郷を作ろうとするも、結局は豚が支配者となり、人間と同じような権力構造を作ってしまう物語です。
- 「自分たちで権利を主張し、勝ち取ることができるかどうかが、独立した存在(主権)としての条件かもしれない」
- 「人間に保護されているうちは、彼らはあくまで『管理される対象』であり、対等な権利主体にはなりにくい」
という厳しい現実も指摘されました。
サピエンス全史的視点:食べられることによる「繁栄」
さらに視点を広げ、ベストセラー『サピエンス全史』でも語られる「進化論的な成功」についての議論もありました。
「個体」として見れば、人間に食べられる豚は不幸かもしれません。しかし「種」として見ればどうでしょうか? 人間に家畜化されたことで、豚や牛は天敵に襲われることなく、地球上で爆発的に個体数を増やしました。野生のままなら絶滅していたかもしれない種が、人間の食糧となる契約(のようなもの)を結ぶことで繁栄している。
- 「食べられることを『悪』とするのは、人間の勝手な価値観かもしれない」
- 「食物連鎖全体で見れば、捕食・被食の関係で生態系は回っている。それを人間が『可哀想だから』と止めることは、本当に正義なのか?」
この問いは、現代のビーガニズム(完全菜食主義)への考察にも繋がりました。「痛みを減らすべき」という功利主義的な優しさと、「自然の摂理」としての残酷さ。私たちはどの視点に立つかで、正解が全く変わってしまいます。
4. 結論:境界線は私たちが引いている
50分間の対話を経て見えてきたのは、「人間と動物の境界線」は、生物学的な事実として存在する線ではなく、人間の「想像力」や「共感」によって引かれた流動的な線であるということでした。
もし動物と言葉が通じたら、私たちは彼らに「自分と同じ痛みや感情がある」と想像し(共感し)、その瞬間に彼らは「食べ物」から「隣人」へと変わります。それは法律が変わる前、私たちの意識が変わる瞬間に起こる変化です。
しかし同時に、その「優しさ」が地球全体のシステムとして正しいかどうかは、誰にもわかりません。
参加者の気づき(抜粋)
- 「『犯罪になるか?』という問いから、法律の成り立ちや歴史の話まで繋がるとは思わなかった」
- 「ビーガンの考え方が、単なる感情論ではなく『苦しみの総量を減らす』という思想に基づいていると知り、見方が変わった」
- 「結局、人間は自分たちが心地よく生きるために『共感できる範囲』を決めているだけなのかもしれない」
まとめ:答えのない問いを楽しむ贅沢
今回の哲学カフェも、明確な「答え」が出たわけではありません。しかし、「肉を食べる」という日常的な行為一つとっても、そこには言語、法、歴史、進化論といった無数の背景が隠されていることに気づかされました。
「当たり前」を疑い、異なる視点を行き来することで、世界の解像度が少しだけ上がる。それが哲学カフェの醍醐味です。
もし明日、愛犬や愛猫があなたに話しかけてきたら。あなたはその「境界線」をどこに引きますか?
次回の開催でも、皆様と共に新たな問いを探求できることを楽しみにしています。


