「親孝行とは何か?」親子の“ちょうどいい”距離感と『課題の分離』。 (2025/10/5)

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今回は参加者の一人から、とても切実で、多くの人が一度は考えたことのある問いが投げかけられました。

「最近、母とよくぶつかるんです。その根本にあるのが、『何が親孝行で、何が親不孝なのか』という問いで…」

「親に産んでもらった恩があるのだから、子供はこうあるべき」。 そう考えるお母様と、「母の子としてではなく、私として生きたい」と願うご自身の想い。 今回の哲学カフェは、この「親孝行とは何か?」という、深くて難しいテーマを巡って、参加者それぞれの経験や価値観が交錯する、非常に濃密な対話の場となりました。

「私として生きたい」― 親の期待と“私”の人生の狭間

「親孝行」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。旅行に連れて行くこと? 定期的に顔を見せること? それとも、親が望むような人生を歩むことでしょうか。 今回の対話の口火を切った参加者の悩みは、多くの人が共感できるものでした。

「母には『産んでもらった恩義がある』という感覚が強くあるようです。だから、どれだけ傷つけられたと感じても、邪険にはできない、と。でも、私はそうは思えない。親子だけど、全く別の人間だから」

この「親子だけど、別の人間」という感覚と、親側の「親子だから分かるよね」「こうあるべきだよね」という期待のズレ。これが、多くの親子関係の摩擦を生む原因なのかもしれません。

多様な親子関係のカタチ

この日集まった参加者の親子関係も、実にさまざまでした。

  • 「父親も教員で、常に比べられているようで苦しかった」という男性の教員。
  • 「うちは放任主義で『好きなことやりな』。逆にもう少し干渉してくれてもいいくらい」という女性。
  • 「『産んであげた』という考え方が苦手。『あなたが勝手に産んだんでしょ』くらいに思ってる。自立して生きていること自体が親孝行だと思っている」という方。

さらに、親との「年齢差」も、関係性に大きく影響していることが分かりました。

「親と40歳以上離れているので、干渉は全くない。むしろ、最近は親が『老いていく』ことへの心配や寂しさがある」という参加者。 一方で、「21歳差と近いので、親というより『近所のお兄ちゃん』みたいな感覚。だから『親孝行』と言われても、友達にプレゼントを渡す感覚に近いかも」という若い参加者も。

「親孝行」と一口に言っても、その定義は家庭環境、世代、そして個人の価値観によって全く異なる。私たちはまず、その事実に直面しました。

「親孝行」の呪縛を解くヒントは“恩送り”と“課題の分離”

対話が深まる中で、「親孝行」という言葉が持つ一種の「呪縛」のようなものから、私たちを解放してくれる2つのキーワードが浮かび上がってきました。

ヒント①:「恩送り」という考え方

ある参加者が、職場の上司から聞いたというエピソードを共有してくれました。

「親からもらった恩を、その親に返そうとすると、そこで関係が閉じてしまう。そうじゃなくて、親からもらったものは『別の人に返していく』。それが子供の立場でできる、一つの『親孝行』なんじゃないか、と」

これは、いわゆる「恩送り」の考え方です。 親が望む形(例えば、孫の顔を見せる、同居する)で直接恩を返すことだけが正解ではない。親から受け取った愛情や教育、価値観を糧にして、自分が社会や次の世代、あるいは全くの他者に対して良い影響を与えていく。 「それも立派な親孝行になるのではないか」という視点は、親の期待にがんじがらめになっていた参加者に、新しい風を吹き込みました。

ヒント②:『嫌われる勇気』に学ぶ「課題の分離」

そしてもう一つ、親子関係の悩みを解きほぐす強力なキーワードとして挙がったのが、アドラー心理学の「課題の分離」です。

「『嫌われる勇気』という本が大好きで。人間関係のトラブルのほぼ全ては、他者の課題に介入することから始まる、と」

これは、主催者である私自身も強く共感するポイントです。 「親が子の課題に介入する」あるいは「子が親の課題に介入しようとする」。 例えば、親が「あなたのために」と進路や結婚に口を出す。これは、本来「子の課題」であるはずの人生の選択に、親が土足で踏み込んでいる状態です。 今回のテーマを出してくれた参加者がお母様に言われた「私にこんなことを言わせるなんて、あんたは親不孝だ」という言葉。これも、「親がどう感じるか(親の課題)」を、「子の責任(子の課題)」であるかのようにすり替えてしまっています。

「『お母さんがそう思うのは、お母さんの課題であって、私にはコントロールできない』。そう線引きすることが、お互いにとって必要なのかもしれない」

もちろん、これは冷たく突き放すという意味ではありません。お互いが自立した個人として尊重し合うために、健全な「境界線」を引くこと。それが、親子といえども(いや、親子だからこそ)重要なのではないでしょうか。

親の「干渉」の正体は、承認欲求や“寂しさ”かもしれない

対話はさらに核心に迫っていきます。「課題の分離」は理想論としては分かっていても、現実の親を前にすると難しい。なぜ親は、そこまで子の課題に介入してくるのでしょうか。

「全部取り」を目指す柔軟な戦略

ここで、ある男性参加者から、非常に柔軟で戦略的な考え方が提示されました。

「親の理想のレールと、自分の幸せ。その両方が交差するところが少しはあるはず。僕は『全部取り』したいタイプなので、そこを探します」

彼は続けます。 「もちろん、自分のやりたいベスト(理想)は諦めない。でも、そこに行くまでに、一旦は親が満足するベター(次善策)を見せる。親も一旦満足すると、少し警戒が緩む。その隙に、自分のベストを腰眈々と狙う(笑)。直線じゃなくてもいいんです」

この「親の幸せ」と「自分の幸せ」の両方を諦めない、というスタンス。それは、親を敵対視するのではなく、かといって自分の人生を諦めるのでもない、第三の道です。

毎月「化粧品」を送り続けたら、母との喧嘩が消えた

では、親が本当に求めている「幸せ」とは何なのでしょうか。 ある女性も、親との関係性に悩みを抱えていました。電話をするたびに喧嘩になり、「もう顔も見たくない」とまで言うほどに。

母親も、「ああしろ、こうしろ」と干渉してくるタイプでした。 でもある時、ふとしたきっかけで、彼女の夫が仕事で扱っている化粧品を、毎月母に送ることにしたのです。「カタログで好きなの選んでください」と。 それから、不思議なことが起きました。あれだけ頻繁だった電話での喧嘩が、ピタリと止んだのです。

母親は「化粧品を送れ」なんて一言も言っていませんでした。彼女が口にしていたのは、もっと別の「ああしろ、こうしろ」という干渉でした。 でも、今思えば、その言葉の裏には、「娘は家を出て、私を気にかけてくれない」「誰が私のことを重要視してくれるの?」という、強烈な“寂しさ”や“承認欲求”があったのではないかと思うのです。

毎月届く「贈り物」と、「今月は何がいい?」という「コミュニケーション」。 それが、形はどうあれ「あなたのことを気にかけていますよ」というメッセージとして伝わり、母親の根本的なニーズが満たされた。だから、表面的な「干渉」という形でのSOSを出す必要がなくなったのではないか…。

この話に、今回の「親孝行」というテーマを持ってきた参加者も深く頷いていました。 「まさに、それだと思います。うちの母も、きっと余裕がなくて、寂しいんだと…」

まとめ:私たちなりの「親孝行とは何か」

対話の終盤、私たちは「親孝行とは何か」という最初の問いに、再び立ち戻りました。

「親孝行」とは、親の言いなりになることではありません。かといって、親を完全に無視することでもない。

今回の哲学カフェで見えてきたのは、もっとしなやかで、多様な「親孝行」の姿です。

  • 親からもらったバトンを、次の世代や社会に渡していく「恩送り」も、立派な親孝行である。
  • お互いの人生を尊重し、健全な境界線を引く「課題の分離」こそが、長い目で見た親孝行につながる。
  • 親が口にする言葉(干渉)の裏にある、「寂しさ」や「承認欲求」に気づくこと。
  • そして、そのニーズを満たすために、「気にかけているよ」というサインを、小さな形(言葉、贈り物、連絡)で示してみること。

「昨日、ちょうどシュークリームを買って帰ったんです」というある参加者さん。 「それ、すごく良いと思います!」と参加者から声が上がります。

「寒いから気をつけてね」「好きそうなお菓子見つけたから」 そんな何気ない一言や、小さな贈り物が、こじれた親子の関係性を少しずつ溶かしていくのかもしれません。

「親の理想」と「私の幸せ」を両立させる「全部取り」を目指して、まずは相手のニーズを想像し、小さなアクションから始めてみる。

それが、この日の哲学カフェで見つけた、私たちなりの「親孝行」の一つの答えでした。