今回は、「キャンセルカルチャー」という非常に現代的で、時に過激なテーマについて対話を行いました。
このテーマは、参加者の方からのアンケートで挙がったもの。「言葉自体は知らなかったけれど、気になる」という理由で選ばれ、対話がスタートしました。私たち自身、この言葉の明確な定義や、日々SNSで目にする「炎上」との違いを深く理解しているわけではありませんでした。
だからこそ、フラットな視点で「それって何だろう?」「どう感じる?」と語り合えるのが哲学カフェの良いところ。今回は、この「キャンセルカルチャー」という現象について、参加者の皆さんと交わした深く、時に鋭い対話の模様をお届けします。
そもそも「キャンセルカルチャー」とは?
まず、「キャンセルカルチャーって何?」という共通認識を持つため、チャットGPTに定義を聞いてみることから始めました。
「キャンセルカルチャーとは、ある人物や企業が社会的に問題のある言動や行為をしたと見なされた時に、SNSなどを通じて不買運動やボイコット、公開批判などを行い、社会的に『キャンセル』(つまり『排除』)しようとする現象のことです。元々『キャンセル』はイベントや契約を取り消す意味ですが、この文脈ではその人の社会的立場や発言の場を取り消すニュアンスで使われます。」
日本でいう「炎上文化」や「不売運動」に近いもの、という説明です。 この定義を聞いて、参加者の皆さんからは「ああ、あれのことか」と、具体的な事例が思い浮かんだようでした。
「炎上」とどう向き合っている?参加者のリアルな声
皆さんは、日々SNSなどで目にする「炎上」とどう向き合っているのでしょうか。
- 「見ていると嫌な気持ちになる。自分の中のネガティブな感情が引き起こされる感じがして、プラスになることがないので、なるべく見ないようにしている」
- 「興味を持って調べると、その履歴が残ってニュースフィードが偏ってしまうのが嫌。あれは良くないですよね」
- 「なぜそれが起きたのか、という心理の探求には興味があるけれど、炎上自体は時間の無駄だと思ってしまう」
- 「見ないのが一番。プラスの感情になることがない」
多くの参加者が、炎上やキャンセルカルチャーに対して、意識的に距離を置こうとしていることが分かりました。自分自身のメンタルヘルスを守るため、あるいはそれが自分の人生にとって有益ではない、という冷静な判断があるようです。
炎上の両義性:「社会正義」か、それとも「個の叩き」か?
対話が進む中で、キャンセルカルチャーや炎上には、単にネガティブな側面だけではないのではないか?という視点が提示されました。
良い側面:社会を動かした「サイレントデモ」
ある参加者から、印象的な事例が共有されました。
「最近、ある戦争に関連して、特定の企業が武器提供に加担しているという話が出た時、世界的にその企業や関連会社(有名なスポーツブランドなど)の商品を買わないようにしよう、というサイレントデモ(不買運動)が起きました。日本でもその動きは広がり、結果として、その企業は武器提供の停止に近い動きを見せたんです」
彼女は続けます。
「その結果を見たとき、社会を良い方向に向かわせる力があるなら、炎上も一概に悪いとは言えないのではないかと思いました。ただ、」と前置きし、「個人のスキャンダルを叩くような炎上とは違う」とも付け加えました。
難しい「正義」と「叩き」の境界線
この「社会正義のための運動」と「個人を叩く炎上」の違いは、非常に重要な論点です。 しかし、他の参加者からはこんな鋭い指摘も。
「その区別って、すごく難しくないですか? テレビ局の不祥事を叩いている人たちも、本人たちは『社会を良くしよう』という正義感でやっている可能性が高いと思うんです」
確かに、その通りかもしれません。自分が「正義」だと信じるものが、他人から見れば「過剰な叩き」に見える。逆もまた然りです。戦争が絶対悪だと私たちは思っていても、そうではない立場の人がいるかもしれない。この境界線は、非常に曖昧で、個人の倫理観や立場によって揺れ動くものであることが浮き彫りになりました。
SNSとキャンセルカルチャー:なぜ現象は加速するのか?
キャンセルカルチャーがここまで社会現象化した背景には、間違いなくSNS(特にX、旧Twitter)の存在があります。
炎上に疲れてSNSを「アンインストール」した話
ある参加者は、最近X(旧Twitter)のアカウントをアンインストールしたと語ってくれました。
「きっかけはいくつかありますが、例えばある漫画家さんがドラマ化の件で亡くなられた一件。制作側が強く叩かれるのを見たり、あるいは応援していたグループの、あるタレントが問題を起こした時に、全く関係ない他の所属タレントまで批判されているのを見たりして…。そういうのを見ていると、自分のメンタルがやられてしまう。それが嫌になって、見るのをやめました」
SNSは、情報収集や「推し活」など楽しい側面も多い一方で、こうした意図しないネガティブな情報に強制的に触れさせられる側面も持っています。
発言者はごく少数:0.01%が「世論」に見えるSNSの罠
ここで、炎上に「加担した(コメントやリツイートをした)ことがあるか」という問いが投げかけられました。 結果は、ほぼ全員が「いいね」ぐらいはあっても、批判的なコメントを書き込んだことは「ない」というもの。
「実際、炎上に積極的にコメントしている人って、全ユーザーの0.01%とか、1万人に1人ぐらいらしいですよ」
この事実は衝撃的でした。 私たちは、SNSのタイムラインに流れてくる批判的な意見を見て、「世の中はみんなこう思っているんだ」と錯覚しがちです。しかし、実際にはごくごく少数の声が、SNSの拡散力によって増幅され、あたかも「多数派の意見」のように見えているだけかもしれないのです。
「もしかしたら、普段の社会生活がうまくいかず、どこかにはけ口を求めている人たちが、そこで発言しているだけなのかも(※これはあくまで個人の偏見ですが)」という意見も出ました。
さらに、ネガティブな意見はポジティブな意見よりも拡散されやすい傾向があります。 「ドラマを見ていて、誰かが『この人、演技下手だよね』とコメントしているのを見ると、それまで何も思わなかったのに、急にそう見えてきちゃう」という経験は、多くの人が頷くところでした。
情報操作と「昔からあった」本質
では、こうした現象はSNSが登場してから始まった新しいものなのでしょうか?
「いや、昔から同じようなことは繰り返されてきた」という意見も出ました。
「親世代は学生運動が盛んな時代でした。やっていることの本質は、今と変わらないのかもしれません。ただ、昔はデモに行動する体力やエネルギーが必要だった。でも今は、家に引きこもっていても、指一本で誰でも参加できる。手段のコストが劇的に下がっただけ」
また、歴史を振り返れば、為政者による「情報操作」も常に行われてきました。 江戸時代の田沼意次が失脚した「米騒動」も、一説には政治的な敵対勢力が「田沼は『米なんて食わずに葉っぱでも食ってろ』と言ってたぞ!」というデマを市井に流したことが発端だった、という話がドラマで描かれていた、と。
「今も、政府機関がTwitterアカウントを大量に作って、特定の意見を拡散させ、世論を操作している、なんて話もありますよね。何が本当で、何が嘘か分からない時代。結局、自分が信じたいものを信じるしかない。もはや宗教に近い」
私たちはどう向き合うか:参加者それぞれのスタンス
キャンセルカルチャーという複雑な現象に対し、私たちはどう向き合えばよいのでしょうか。対話の中から、いくつかのヒントが見えてきました。
「自分の人生にしか興味がない」という強さ
「炎上には興味がない」と断言する参加者もいました。
「私は自分の人生にしか興味がないので。誰かが不倫したとか、正直マジでどうでもいい。それ(炎上)に関わることが、自分の人生にとって有益か?時間の無駄じゃないか?と考えてしまう」
これは一見、冷たく聞こえるかもしれませんが、情報過多な現代において、自分のリソース(時間と感情)を何に使うかを選択する、非常に重要なスタンスです。他人のスキャンダルに感情を揺さぶられるより、自分の人生を豊かにすることに集中する。これは一つの「強さ」と言えるでしょう。
炎上から「学ぶ」という逆説的な視点
一方で、こんな面白い視点も。
「最近、職場や日常生活で、他人に『怒られる』機会って減りませんでしたか? パワハラとかを気にして、上司も強く指導しづらくなっている。だから、SNSで他人の炎上を見て、『あ、こういうことやったらヤバいんだ』と反面教師として学ぶことはあるかもしれません」
例えば、「上司のSNSを見て、部下はこういう報連相をしてほしいんだ、と知って気を付けるようになった」というリアルな声も。本来は対面で学ぶべきコミュニケーションを、SNSの「炎上事例」から学んでいる、というのは皮肉でもあり、現代的でもある現象です。
マザー・テレサの言葉「意識を向けたものが拡大する」
また、主催者からはマザー・テレサの有名なエピソードが紹介されました。
「彼女は『反戦集会には参加しません。でも、平和集会なら喜んで行きます』と言ったそうです。これは、意識を向けたところにエネルギーが集まるという法則を理解していたから。戦争に『反対』することで、意識は『戦争』に向かい、かえってそのエネルギーを増幅させてしまう。それよりも、『平和』に意識を向けるべきだ、と」
これをキャンセルカルチャーに当てはめると、私たちが誰かを「批判」し「炎上」させることは、その批判対象にエネルギーを与え、世の中にそのネガティブな事象を広めていることにも繋がりかねない、という視点です。
人間の「裏」と「表」:なぜ人は批判したくなるのか
対話の終盤、話題は「なぜ人はそこまでして他人を批判したくなるのか」という、人間の内面的な心理へと移っていきました。
「裏垢」とストレス発散のメカニズム
最近話題になった、ある大企業の会長が持っていたとされる「裏アカウント」の疑惑。表の顔とは全く違う、下ネタを発信するアカウントだったという話から、「裏垢」の話題に。
「裏垢って、結構みんな持ってるものなんですかね?」 「持ってる人は多いと聞きます。特定の人にしか見せないアカウントで、愚痴を言ったり」
これは、昔の「裏サイト」や「2ちゃんねる」と同じ構造だという指摘がありました。 「人間って、どこかでマイナスな感情を吐き出さないとやっていけない生き物なんですよ。日本人の8割は遺伝的にネガティブ(悲観的)な思考を持ちやすいという話もありますし」
表立って言えない不平不満。それがSNSという匿名(あるいは別名義)の場で吐き出され、バランスを取っている。そのはけ口が、時に「キャンセルカルチャー」という形で誰かに向かってしまうのかもしれません。
あなたは直接言うか、陰で言うか
では、不満がある時、どうするのが健全なのでしょうか。
「僕は直接本人に悪口(改善点)を言います。だから、逆に自分が『キャンセルされる側(炎上させられる側)』になることが多いです」という参加者も。
彼は「他人は自分が作り出した像でしかない。真実の他人なんていないんだから、自分の言いたいことを言う」という、強い哲学を持っていました。
しかし、多くの人は「直接言うことのリスク」を考えてしまいます。相手との関係性、相手が受け取ってくれるか…。 その結果、直接は言えず、SNSや「裏垢」という場で発散することになる。
「何かを批判する時、それが『課題解決(相手に良くなってほしい)』のためなのか、単なる『ストレス発散(相手を傷つけたい)』のためなのか、自分の中で区別することが大事だと思う」という意見も出ました。
「あなたのためを思って言ってるの」という言葉が、実は自分のストレス発散のため(=自分のため)であることは往々にしてあります。その自己認知が歪むと、建設的な対話は難しくなります。
まとめ:対話で見えたこと
今回の哲学カフェは、「キャンセルカルチャー」という一つの現象を切り口に、SNS、社会正義、情報操作、そして人間の本質的な心理まで、非常に多層的な対話が繰り広げられました。
参加者の方が最後にまとめてくれた言葉が、本質を突いていました。
「昔から、考えの対立や批判、炎上に近いものは常にあった。ただ、SNSという手段が登場したことで、その『コスト』がゼロに近くなった。誰でも、どこからでも、エネルギーを使わずに参加できるようになった結果、その『性質』が変わってきて、今の歪みを生んでいるのではないか」
私たちは、この強力すぎる「手段」を手にした現代人として、自分の感情や正義感とどう向き合い、どの情報にエネルギーを注ぐのかを、常に問われ続けているのかもしれません。

