「人生は決まっている」は不幸か?宿命論と自由意志の新しい関係。(2025/8/2)

この記事の目次

今回は、「宿命論と自由意志」という非常に深く、そして私たちの生き方に直結するテーマで対話を行いました。

「自分の人生は、生まれた時からすべて決まっている(宿命論)」
「いや、自分の意思でいくらでも人生は変えられる(自由意志)」

どちらの考え方が、私たちをより幸せにするのでしょうか?

この問いは、単なる言葉遊びではありません。私たちが日々の選択をどう捉え、困難に直面したときにどう解釈し、そして自分の人生にどう「納得」していくかに関わる、重大な問いです。

今回の哲学カフェでも、参加者の皆さんから多様な意見が飛び交い、白熱した対話となりました。成田悠輔氏の言葉や、宗教観、遺伝子の影響、そして「自己責任」という現代社会のキーワードまで。対話から見えてきた「宿命論と自由意志」の新しい関係性について、詳しくレポートします。

「宿命論 vs 自由意志」あなたはどっち派?

対話はまず、それぞれの言葉の定義と、参加者の皆さんがどちらの立場に近いかを確認することから始まりました。

  • 宿命論:自分の人生は、何をどうしようと元々決まった道筋をたどるだけ、という考え方。
  • 自由意志:自分の選択と行動によって、未来はいくらでも変えられる、という考え方。

あなたなら、どちらの立場を取るでしょうか?

それぞれのメリット・デメリット

対話では、まず両者のメリットとデメリットが挙げられました。

「自由意志」派の意見は、非常に力強いものです。
「もしすべてが宿命なら、充実感がない。まるでロボットのように、ただ決められたことをこなす人生になってしまう」「自分で切り開いていくことに意味がある」という意見が出ました。自分の選択が未来を作るという感覚こそが、生きるエネルギーになるという考え方です。

しかし、これには裏返しがあります。
「自由意志で選んだ結果、悪い方向に進んだら? それは全部自分のせいになる」

一方で、「宿命論」派の意見はどうでしょうか。
「宿命論は、感情の起伏が穏やかになりそう」という指摘がありました。良いことが起きても悪いことが起きても、「そういう道だった」と受け入れることができる。悪い結果をすべて自分のせいにして苦しむ「自由意志」よりも、ある意味で穏やかに生きられるのではないか、という視点です。

「ハイブリッド派」という現実的な視点

議論が進むにつれ、「100%宿命論」「100%自由意志」という単純な二項対立ではなく、両方を融合させた「ハイブリッド型」の意見が多く出てきました。

  • 「自由意志で選択して過ごすこと自体が、自分の宿命だと思っている」
  • 「ベースとなる宿命はあって、その上でどう生きるかという自由意志がある」

ある参加者からは、「与えられた宿命の中での自由、ということではないか」という、対話の核心に触れるような言葉も出ました。私たちは、「完全な自由意志」を本当に持っているのでしょうか?

「完全な自由意志」はあり得ない?

私たちは「自由に選んでいる」と思っていますが、その「自由」には大きな制約があるのではないか、という議論が深まりました。

「完全な自由意志があるとしたら、それはもう神様だ」

私たちは、生まれた国も、時代も、親も選べません。日本人として生まれたのに、「明日からアメリカ人として生まれ直そう」ということはできません。この「変えられない前提条件」こそが、宿命論的な側面です。

「地球という環境、日本という国、この身体。この枠組みの中で、私たちは自由意志を発揮しているにすぎない

ビル・ゲイツの言葉:「生まれた時」と「死ぬ時」

ここで、有名なビル・ゲイツの言葉が紹介されました。

「生まれた時に貧乏なのはあなたの責任じゃない。しかし、死ぬ時に貧乏なのはあなたの責任だ」

これは、宿命論と自由意志の関係性を見事に表しています。「生まれた時の環境(=宿命)」は選べない。しかし、その後の人生をどう生き、どういう結果で終えるか(=死ぬ時)は、「あなたの自由意志(=責任)」の範囲内だ、というわけです。 (※もちろん、これ自体にも「本当にそうか?」という反論は可能ですが、一つの分かりやすい線引きとして提示されました)

イーロン・マスクはどこまで自由か?

では、その「自由」の範囲はどこまで広がるのでしょうか?

「例えば、今からイーロン・マスクになろうと決意するのは自由か?」「土星に行きたいと願うのは自由か?」

イーロン・マスクが火星移住を目指しているのは、彼が幼少期に読んだSF小説への憧れ、つまり「ロマン」から始まっていると言います。それは論理的な計算を超えた、純粋な「自由意志」の発露に見えます。

目指すのは自由だ。目指さない限り、絶対にそこには到達できない」

かつてジュール・ヴェルヌが『月世界へ行く』という小説を書いたからこそ、それを読んだ子供たちが夢を見て、後のアポロ計画につながったという話もあります。誰かの「自由な夢」が、未来の「宿命」を変えていくのかもしれません。

ただ、イーロン・マスクが火星を目指すのは、現在の科学技術の延長線上で「ギリギリ可能かもしれない」というリアリティがあるからだ、という指摘もありました。土星ではなく火星を選ぶあたりに、彼なりの「土俵」の見極めがあるのではないか、と。

ここで、もう一つの重要な視点、「土俵」の話が持ち上がりました。

成田悠輔氏の「土俵」論が示す、宿命と自由の融合

「努力が報われない時、それを宿命論と自由意志でどう捉えるか」という話題の中で、ある参加者がX(旧Twitter)で見かけたという、成田悠輔氏の言葉を紹介してくれました。これが、今回の対話の大きなヒントとなりました。

人間って頑張ってるのに成果が出ない時が一番苦しいと思う。 自分なりに工夫して時間もかけて、なのに報われない。 ずっと何が足りないんだろうって悩んでた時期があったと。

ある時に気がついて、成果っていうのは努力した量じゃなくて、選んだ土俵で9割決まると。

で、例えば数学が得意な人は、体育会系の世界で努力しても勝率は低い逆に勝ちやすい土俵にさえ立てば、そこで成果が出せる。で、努力はそこからでいいと。

だから僕はまず自分にとって戦いやすい場所を探す。 人より早く疲れるなら1人でできる仕事を選ぶとか、目立つのが苦手なら裏方で勝てる仕組みを作るとか

これは逃げではなく戦略です。成果が出ない時は自分を責めるより土俵を変えた方がいいと。 そういう柔らかい考え方がむしろ継続力や成果につながっていく。無理して正しい道に行こうとしない。勝てる道を静かに探せ

 

成果は「努力の量」より「選んだ土俵」で決まる

この言葉は、宿命論と自由意志の間に、見事な橋を架けてくれます。

ここでいう「土俵」とは、その人が生まれ持った才能、遺伝子、特性といった「宿命」的な要素と言い換えることができます。数学が得意か、運動が得意か、人前に出るのが得意か、裏方が得意か。これは、ある程度「配られたカード」です。

そして、「勝てる道を静かに探す」こと、自分に合わない土俵から降りて「土俵を変える」こと。これが、私たちに与えられた「自由意志」であり「戦略」です。

努力が報われない時、自由意志論者は「努力が足りないからだ」と自分を責めます。宿命論者は「何をしても無駄だ」と諦めます。

しかし、成田氏の視点は違います。
「成果が出ないのは、あなたの努力の仕方が間違っている(=土俵が合っていない)からかもしれない」

これは、「間違った努力」から私たちを解放してくれる、非常に実践的な哲学です。

遺伝と環境:「配られたカード」でどう戦うか

対話では、さらに踏み込んで「遺伝子の影響」についても触れられました。
「人生の大部分は遺伝で決まる」という研究結果(例:別々の環境で育った一卵性双生児の追跡調査)もある、と。

もし、才能や特性が「配られたカード(宿命)」によってほぼ決まるのだとしたら、私たちの自由意志とは何なのでしょうか?

「それは、生まれ持った性能(カード)を、どのようにして最大限に引き出すか。その戦略を立て、実行するのが運と自由意志だ」

麻雀で配られた牌(宿命)は変えられませんが、その牌でどうアガるか(自由意志)を考えることはできます。勝てない土俵で努力を続けるのではなく、自分のカードが活きる土俵を探すこと。それこそが、私たちが使うべき「自由意志」なのかもしれません。

「宿命論と自由意志」は、どっちが人を幸せにするのか?

議論は最終的に、冒頭の問い「どっちが幸せか?」に戻ってきました。

「結局のところ、自分の運命(結果)に、自分で納得できるかどうかが一番大きい

もし未来が最悪のものだと決まっていて変えられないなら、それは絶望(不幸)です。しかし、未来がどうであれ「これは自分が選んだ道だ」と納得できれば、そこに幸福感を見出せるかもしれません。

ここで、「自由意志」がもたらす「自己責任」という問題が、再びクローズアップされました。

「自己責任論」の罠

「自由」は、「自己責任」と表裏一体です。

「自由意志で選んだのだから、その結果はすべてあなたの責任だ」

この考え方は、時として非常に残酷です。ある参加者は、コロナ禍での飲食店廃業を例に出しました。
「彼らは『自己責任』として廃業させられた。でも、営業停止という選択肢しか残されていなかった。選択肢が一つしかない状態は、自由とは言えない」

自由意志じゃないのに(選ばされていないのに)、自由意志っぽい顔をして自己責任と言われるのが一番辛い

紛争地域に生まれた子供に、「そこから逃げ出さないのはあなたの自己責任だ」と言えるでしょうか。言えません。それは「宿命」の領域です。

「自由意志」や「自己責任」という言葉を振りかざすことは、時として人を追い詰めます。そんな時、「宿命論」は私たちを救う「セーフティネット」として機能するのではないか、という視点が提示されました。

辛い時に救いとなる「宿命論」の使い方

「どうしようもない辛いことが起きた時、例えば天災や、近しい人の死。そういう時は、宿命論(仏教的な考え方)が人を救う

すべてを「自分のせいだ」と抱え込む(自由意志)のは、あまりにも苦しい。そういう時、「これは仕方がなかったことだ」「そういう運命だったんだ」と考える(宿命論)ことで、人は初めて顔を上げ、次のステップに進めるのかもしれません。

対話では、こんな使い分けが提案されました。

心が耐えられるうちは、自由意志で『もっと頑張れる』と進めばいい。でも、鬱になったり、もうダメだと思ったりする手前で、『いや、これはしょうがなかった(宿命だ)』と自分を救ってあげてほしい

これは、私たちが生き延びるための、非常に重要な知恵だと感じました。

まとめ:対話で見えた「中庸」という生き方

約2時間にわたる対話の結論は、「どちらか一方」ではなく、「都合よく中庸(両方)を取る」という、非常に人間らしいものでした。

  • 土台(宿命)を受け入れる:自分の才能、環境、変えられない過去は「宿命」として受け入れる。
  • 戦略(自由意志)を行使する:その上で、「どの土俵で戦うか」「どう生きるか」を自分の「自由意志」で選択し、戦略的に行動する。
  • 最後の砦(宿命)で自分を守る:どうしようもなく辛い時、努力が報われない時は、「宿命」のせいにして自分を責めない。

「幸せになる宿命」を信じ、土俵を探す自由を行使する

対話の中で、キリスト教の「予定説(あらかじめ救われることが決まっている)」の話が出ました。これは、「自分は最終的に幸せになることが宿命として決まっている」という考え方です。

ある参加者は、「特定の宗教を信じているわけではないが、なぜか無根拠に『自分は幸せな方に向かっている』と信じている」と語りました。

これは、最強のメンタリティかもしれません。

「どうせ最後はハッピーエンドになる」という宿命を信じる。
だからこそ、安心して「今、この瞬間」の自由意志を行使し、挑戦し、失敗し、土俵を変えながら進んでいける。

「辛い時、自分のせいだと思っていた」と語っていた参加者も、「宿命論によって逆に救われる、という考え方は新しい知見だった」と感想を述べていました。

次回の哲学カフェに向けて

「宿命論と自由意志」というテーマは、最後には「直感と論理」「宗教とは何か」といった、さらに大きな問いにもつながっていきました。

「こういう深い話を、利害関係なく真剣にできる場は本当に貴重だ」という言葉もいただき、主催者として非常に嬉しく思います。

自分の人生に「納得感」を持って生きるために、私たちは「宿命」と「自由」のどちらも必要としています。そのバランス感覚を、日々の対話の中で養っていくことこそが、私たちが幸せに生きるための「戦略」なのかもしれません。

次回の哲学カフェでも、皆さんと深い対話ができることを楽しみにしています。