「あなたって、本当に共感力ないよね」
友人やパートナーから、そんな風に言われて戸惑った経験はありませんか? あるいは、自分自身で「どうも他人の気持ちがわからないかもしれない」と感じている方もいらっしゃるかもしれません。
先日開催した哲学カフェは、まさにそんな一人の参加者の方の素朴な疑問から始まりました。
「共感能力がないと時々言われるんですが、そもそも『共感』って何なんでしょう?」
言われてみれば、私たちは日常的に「共感する」「共感できない」という言葉を使っていますが、その本質を深く考えたことはなかったかもしれません。それは単なる「情報の共有」なのでしょうか? それとも「感情の一致」なのでしょうか?
今回の哲学カフェでは、この「共感とは何か?」という深遠なテーマについて、集まった皆さんでじっくりと対話を重ねました。対話の末に見えてきた、「共感」の意外な正体と、人間関係におけるその役割についての開催報告です。
「共感」の第一歩:それは「情報の共有」か?
対話はまず、「共感とは何だろう?」という定義の試みからスタートしました。
小説の「いいね」は共感か?
ある参加者から「共感とは、情報の共有ではないか」という意見が出ました。
例えば、10人いる場で9人が同じ小説を読んでいて、「あのシーン、良かったよね」と盛り上がっているとします。残りの1人はその小説を読んでいないため、全く話についていけません。この時、9人は情報を共有しているから「共感」できている、という考え方です。
確かに、同じ経験や知識(情報)を持っていることは、共感の土台になりそうです。
しかし、すぐに別の視点が提示されます。
「では、情報を持っていなければ共感できないのでしょうか?」
例えば、友人が「彼氏に振られた」と泣きながら相談に来たとします。私たちはその振られた経緯や彼氏の情報を一切知らなくても、「それは辛かったね」と感じ、寄り添うことができます。これは、情報がなくても成立する「共感」と言えるのではないでしょうか。
「知っているのに共感しない」ケース
さらに議論は深まります。
「『共感力がない』と指摘されるのは、むしろ情報を知っている(分かっている)はずなのに、共感しない時に使われるのではないか」
例えば、小説の筋書きを知っているのに「ふーん、それで?」と冷めた反応をするとき。「なんでそんな盛り上がらないの? 共感力ないな」と言われる。つまり、共感とは単なる情報の認知(知っている)ではなく、そこに何かしらの感情的な反応が伴うものではないか、という仮説が浮かび上がってきました。
共感は「する」ものではなく「される」もの
対話の中で、非常に重要な視点の転換が起こりました。それは、「共感は、本人が『共感している』と判断するのではなく、相手側が『共感された』と感じて初めて成立するのではないか」というものです。
「わかってくれた」という感覚
医療やカウンセリングの現場が例として挙がりました。
患者さんが病気の辛さを訴えている時、医師がその気持ちに共感せず、いきなり「じゃあ、この治療をしましょう」とロジカルな解決策だけを提示しても、患者さんは治療を続けられないことがあるそうです。
治療を続けるためには、まず「それは辛いですね」と相手の感情を受け止め、共感を示すこと。それによって「この先生は私のことをわかってくれた」という信頼関係が築かれ、初めて治療に向かうことができる。
これは、共感が「わかってくれた」という相手側の受容感覚と密接に結びついていることを示しています。
すぐに「解決策」を提示していませんか?
この話には、多くの参加者が頷いていました。特に、悩み相談を受けた時に陥りがちな罠です。
「相談されると、すぐに『それはこうやって解決すればいいじゃん』と解決策(ロジック)が先に立ってしまう」と、ある参加者は語ります。
しかし、相談している側は、多くの場合「まず、この辛い気持ちをわかってほしい」と思っています。その「辛かったね」というワンクッション(共感)がないまま正論をぶつけられても、「共感してもらえてない」と感じてしまうのです。
共感とは、相手が感じている感情をこちらが言語化し、「あなたの気持ちを理解していますよ」と伝える行為そのものなのかもしれません。
「共感」と「同意」の決定的な違いとは何か?
ここで新たな問いが生まれました。「相手の意見に賛成する『同意』と、相手の気持ちに寄り添う『共感』はどう違うのか?」
これは「共感とは何か」を考える上で、非常に重要な分岐点となりました。
違い1:脳(論理)か、心(感情)か
参加者からは、こんなイメージが語られました。
- 同意:脳で理解する。「まあ、あなたの言うこともわかるよ」と、妥協や論理的な理解が含まれる。
 - 共感:心で感じる。「あー!すげえわかる!」と、感情が自然に動く。
 
「あなたの言ってることは論理的に正しい(同意)んだけど、心情的には受け入れられない(共感できない)」というケースは、まさにこの違いを表しています。
違い2:選択的か、自然的か
さらに、こんな意見も出ました。
- 同意:選択的なもの。「あなたの意見に同意しよう」と、意思を持って選ぶことができる。
 - 共感:自然的なもの。「わかる」と感じてしまう。選択の余地があまりない。
 
SNSで「いいね」を押す行為は、手軽な「同意」でもあり、深い「共感」でもある。しかし、本当にバズるのは「選択」を超えて「自然に」多くの人の心を揺さぶった「共感」なのではないか、という分析も飛び出しました。
違い3:全体か、部分か
「同意」は全体的な賛意を示すことが多いのに対し、「共感」は部分的な場合もあるのではないか、という指摘もありました。
例えば、ある政党の政策全体には「同意」できないけれど、彼らが主張する「この問題意識」という一点には強く「共感」する、といった具合です。
「共感」は、相手のすべてを受け入れることではなく、その人の感じている「痛み」や「喜び」といった感情のピースに、自分の心のピースがカチッとハマる感覚なのかもしれません。
共感の本質に迫る:経験、傾聴、そしてサイコパス
対話は終盤、「共感とは何か」という問いの本質へとさらに迫っていきます。
共感には「経験(情報)」が必要か?
「自分の中にない感情は、共感のしようがなくないですか?」
再び「情報」の議論が戻ってきました。ここで言う情報とは、知識ではなく「経験」です。
どん底まで落ちた経験がある人は、他人の小さな悩みも「その辛さ、わかるよ」と深く受け止めることができる。看護師さんが患者さんの痛みに寄り添う時も、自分の中の過去の「痛みの経験」と照らし合わせているのではないか。
つまり、共感とは、相手の感情に近いものを自分の「経験の引き出し」から見つけてきて、重ね合わせる作業なのかもしれません。
共感しているフリ?――「共感される」技術
ここで、ある参加者から鋭い指摘がなされました。
「看護師さんやカウンセラーは、すべての患者さんに本気で共感していたら、自分が辛くて燃え尽きてしまう(バーンアウト)。だから、職業として『共感』はするけれど、深入りはしないと聞く」
これは、相手に「共感された」と思わせる技術とも言えます。経営者が、内心「なんでこんなことも分からないんだ」と思っていても、従業員のモチベーションのために「そうだよね、大変だよね」と共感してみせるケースもこれに近いかもしれません。
相手の気持ちは(論理的に)理解できるが、自分の感情は動かない。これは「サイコパス」と呼ばれる状態に近いのではないか、という議論にも発展しました。
しかし、重要なのは、たとえそれが技術的な共感(フリ)であったとしても、相手が「共感された」と感じ、信頼関係が生まれれば、それは機能しているという事実です。
ただし、と別の参加者が付け加えます。
「本当に共感してないと、どこかで見破られる。臨床心理士に相談した時、それっぽい言葉はかけてくれるけど、直感的に『この人、本当に共感してないな』と感じたことがある」
結論:共感の土台は「傾聴」
では、技術的な共感と、本物の共感を見分けるものは何でしょうか。
「それは、ちゃんと話を聞いているかどうか」
結局のところ、相手を深く理解しようとする「傾聴」の姿勢がなければ、適切な言葉(共感の言葉)は投げかけられません。100聞いた上での「辛かったね」と、1しか聞いていない「辛かったね」では、同じ言葉でも重みが全く違います。
相手の話を遮らず、ジャッジせず、まずは最後まで聞く。この「理解しようとする態度」こそが、共感の第一歩であり、本質なのかもしれません。
まとめ:「共感できない」自分をどう捉えるか
今回の哲学カフェは、「共感とは何か?」という問いから始まり、実に多様な側面が浮かび上がってきました。
- 共感は、単なる情報共有ではなく、感情的な反応を伴う。
 - 共感は「する」ものではなく、相手に「された」と感じてもらうことで成立する。
 - 「同意(論理)」と「共感(感情)」は似て非なるものである。
 - 共感には、自分の「経験」という引き出しが必要かもしれない。
 - 相手の話を深く「傾聴」することが、共感の絶対的な土台である。
 
冒頭の「共感力がないと言われる」という悩みに対しても、一つの光が見えました。
ある参加者が「自分は話を聞いている時、頷きが少なかったり、考える時に右上を見てしまったりする癖がある。それが『共感してない』と受け取られているのかも」と自己分析されていました。
また、「この場(哲学カフェ)は、『感じる場』ではなく『考える場』だから、共感モードになりにくい」という指摘もありました。
共感できないのは、能力がないからではなく、単にリアクション(表現)の問題であったり、場の設定(モード)の違いであったりするのかもしれません。
対話は、後半のテーマである「恋愛」へと移っていきます。
「共感できる人を好きになるのか、それとも、好きになるから共感するようになるのか?」
「共感とは何か」を探求した先に見えてくる、恋愛という究極の人間関係。その対話の模様は、また次回の報告でお届けしたいと思います。