「自由とは何か」「情報を疑う姿勢」を巡る探求。2025年5月10日の朝活 哲学カフェ

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先日、朝活にて哲学カフェを開催しました。今回のテーマは、現代社会を生きる上で誰もが向き合うであろう根源的な問い、「自由とは何か?」そして、日々大量の情報に触れる中で切実な課題となる「情報に振り回されないためには?」でした。これらのテーマについて、参加者の皆さんと共に深く掘り下げ、多様な視点から議論を交わしました。この報告では、その白熱した議論の一部をご紹介します。

パート1:「自由」とは何か?~理想から哲学、そして他者との関係まで

まず最初のテーマは「自由」です。もしあらゆる制約、例えば時間や経済的な制約、人間関係の縛りなどが一切なくなったとしたら、どこに住みたいか?という問いかけから議論はスタートしました。参加者からは、自由になったら住んでみたい場所として、東京(特に新宿御苑近くの高級マンション)、台湾の山頂、南極、アラスカ、実家の近く、アメリカ(ニューヨーク)、ヨーロッパ(イタリア、ルクセンブルク)、フィンランドなど、実に多様な場所の名前が挙がりました。

これらの場所を選ぶ理由も様々です。新宿御苑近くの高級マンションは、毎日庭園を散歩したいという願望から。台湾の山頂は、そこに住むことでどのような楽しみを感じるのだろうか、単純に体験してみたいという憧れから。南極は、旅行記を読んで一生に一度は行ってみたいと思った場所。ルクセンブルクは、金融大国でありながら自然も豊かで平均年収世界一という話を聞き、行ってみたいと思った。フィンランドは、ムーミンが好きなことに加え、サウナが身近にあり、温まった後に氷の湖に飛び込むというワイルドな体験に惹かれるといった具体的な魅力が語られました。もしルクセンブルクのような国に住む場合、労働許可など現実的な問題もあるが、誰かに連れて行ってもらえたらという希望も語られ、制約のない自由な状態を想像することの楽しさが感じられました。

また、旅行に行きたい国としても、南極や、多言語社会であるスイスなどが話題に上りました。スイスは、生まれ育ったら面白そうだと感じた人もいたようです。

議論は次第に哲学的な側面に移行しました。「自由とは何か」について、チャットAIに尋ねた結果、いくつかの定義や側面が提示されたことを紹介しました。

  • 自由は自己の価値を選び取る創造的な行為である
  • 自由は関係性、制度、権力との交渉である
  • 自由は選択と責任の運動である
  • 自由は自然、神様(神)と調和するあり方でもある
  • 自由は消極的自由、実質的自由という条件に分かれる
  • 自由の限界と批判的最定義の必要性

これらの定義について話し合う中で、「自由には責任が伴う」という点が繰り返し強調されました。極端な例として、人殺しをすることさえも自己責任と言えるのかといった問いが投げかけられると、自由が持つ恐ろしさや、その責任を負いたくないという側面も浮き彫りになりました。

しかし、私たちはそもそも完全に自由な存在なのでしょうか。人間は社会的な生き物であるホモサピエンスであり、誕生した瞬間から人との関係性の中で生きています。その中で、何のルールもない、何をやってもいい自由というのは、人類が誕生してから現在まで存在したこともなく、今後も存在しないのではないかという意見が出されました。他者との関係性がある以上、ルールや倫理が必要になる。倫理とは何か、他者を尊重すること、嫌な気分にさせないことではないかといった解釈も示されました。

また、「自由」の別の側面として、選択肢が多すぎることがかえって苦しみをもたらすという意見も出ました。進路選択に悩む学生のように、情報が増え、選択肢が爆発的に増えることで、かえって麻痺状態に陥ることもある。ある哲学者が「我々は自由の刑に処されている」と述べたように、自分で自分の生き方を決めなければならないこと自体がプレッシャーになる。江戸時代の農村のように、生まれによって人生がほぼ決まっていた時代の方が、悩む必要がなく楽だったのではないかという視点も提示され、自由と幸せの関係についても考えさせられました。

さらに、私たちはどれほど「自由」に選択しているのか?という問いも重要な論点となりました。自分が選んだと思っていることでも、実は他者の目や周りからの評価を気にして、あるいはマーケティングの影響を受けているだけなのではないか。本当の自分の価値観ではなく、社会的に「良い」とされているものを選んでしまっているのではないか。家ではジャージが一番落ち着くのに、外出時にはスカートを選ぶのはなぜか?といった具体的な例を通して、自己の選択の根源を探求しました。自分の価値観は、これまで出会ってきた人々の影響(家族、友人、読書など)を受けて形成される総集合体のようなものであり、完全に無から生まれるものではないという視点も提示されました。他者の考えを取り入れることは、短い人生で多様な知見を得る上で良いことでもある、という前向きな捉え方も示されました。

最終的に、「自由とは何か」という問いに対して明確な結論は出ませんでしたが、これは哲学者たちが長年考え続けているテーマであり、答えが出ないことこそが重要なのではないかという気づきがありました。考え続けること、そして「他の人に迷惑をかけない」といった基準を持ちながら、他者との関係性の中で自分の「自由」を模索していくことの重要性が示唆されました。

パート2:情報過多社会を生きる~「疑う」姿勢と情報の真実性

次に、「情報に振り回されないためには?」というテーマについて議論を深めました。現代はインターネットやSNSを通じて情報が氾濫しており、その中で情報の真偽を見分けること、そして情報に流されずに主体的に判断することが非常に難しくなっています。

まず、参加者共通の認識として、入ってくる情報を完全に信じすぎないという姿勢の重要性が挙げられました。特にネットニュースやSNSの情報に対しては、「そうじゃないかもしれない」「嘘かもしれない」と頭の片隅で疑いながら生きている。炎上ニュースなどのセンセーショナルな情報に注目が集まる裏で、実は重要な法案がひっそりと通されていたりするのではないか、といった見方も共有されました。

フェイクニュースの例として、熊本自身の際に拡散された動物が逃げ出したという合成画像が挙げられました。当時は巧妙に作られた画像に騙された人もいたが、最近は「これはフェイクかもしれない」と疑って情報を見る人が増えている。しかし、どうでもいい情報であれば、たとえフェイクでも「そうなんだ」と信じてしまうこともある。一方で、コロナに関する情報のように、人生に大きな影響を与えうる情報については、何が正しいか分からず判断が難しい状況があったことなどが語られました。ワクチンの接種を巡る状況や、身近な人の副反応の経験といった具体例も共有され、情報が錯綜する中での個人の判断の難しさが改めて浮き彫りになりました。

情報の信頼性について、口コミサイトやオンラインの評価の話題も出ました。食べログやGoogle口コミの星の数を鵜呑みにせず、「多分操作してるんだろうな」と疑って見る人が多いようです。実際に、知人が新しい店をオープンする際に、友人・知人にGoogleレビューで高評価と長文のコメントを依頼していたという具体例も共有され、口コミや評価がいかに操作されうるかという現実が語られました。不動産取引の際の担当者評価についても同様の経験が語られ、「みんな同じことやってるんだな」と感じたといいます。こうした状況を踏まえると、結局は自分で実際に行って体験し、自分で評価を下すしかないという結論に至ります。情報に振り回されないためには、自分の五感を信じることが重要なのかもしれません。

インフルエンサーや有名人が発信する情報にも注意が必要です。ある有名起業家(与沢翼氏)の話も出ましたが、ネット上で発信される情報がどこまで真実なのかは分からない。また、資産を持っている有名人は、詐欺組織に狙われるリスクも高く、情報過多の中で真実を見抜くのが非常に難しい状況にあることも指摘されました。プロでも騙される可能性があるという話は、情報にどう向き合うかという課題の深刻さを示しています。

さまざまな詐欺の手口についても議論されました。マルチ商法、情報商材(特に「絶対儲かる」といった勧誘)、仮想通貨詐欺、マッチングアプリ詐欺などが挙げられました。これらの情報商材やビジネスモデルを見抜く上で重要なのは、「実態のないもの」や「先に始めた人が儲かる構造」に注意することだと指摘されました。商品やサービスの実態が伴っているか、後から始めた人も成功する可能性があるかといった視点が重要です。

さらに情報の「真実性」そのものに対する問いとして、ジョージ・オーウェルの小説『1984』が話題に上りました。この小説に描かれる全体主義社会では、党のスローガン「無知は力なり」「戦争は平和なり」「自由は隷属なり」のように、常識とは真逆の概念が受け入れられています。また、政府によって歴史が都合よく改ざんされるという描写があり、何が真実か分からない状況が描かれています。参加者の中には、この小説を読んで、歴史の改ざんがあったとしても、最初に触れた情報が真実だと信じられてしまうのではないか、結局何が真実か分からないと感じた人もいました。そして、真実かどうかよりも、その情報が自分の人生にどう使えるかという視点の方が重要ではないか、という意見も出されました。例えば、占いが本当に当たるかは分からないが、信じることで前向きになれるならそれでいいのではないか、といった考え方です。これは、情報との向き合い方において、客観的な真実よりも主観的な価値を重視する姿勢を示しています。

情報の「真実性」に関する議論は、科学的な情報にまで及びました。指の長さとテストステロン値、男女の能力差が個人の中ではモザイク状になっているという話、血液型と性格や収入、早生まれが学業やスポーツに与える影響、兄弟構成や生育環境が性格や成功に与える影響、そして遺伝と環境が人間の特性に与える影響など、様々な科学的知見が紹介されました。しかし、これらの情報もどこまで絶対的な真実なのかは分からず、都合よく解釈して生きている部分もある、という正直な感想も共有されました。

パート3:「自由」と「情報」~複雑な現代社会を読み解く

「自由」と「情報」、一見異なるテーマですが、議論を通じて両者の関連性も見えてきました。情報過多な現代社会において、情報の真偽を見極め、振り回されないことは、主体的な「自由」な選択を行う上で不可欠です。また、自分の価値観が他者や情報の影響を受けて形成されるという視点は、本当に「自由」な選択とは何かという問いに繋がります。

今回の朝活では、「自由とは何か」「情報に振り回されないためには」という問いに対する明確な答えは出ませんでした。しかし、様々な意見や経験を共有し、共に深く考えるプロセス自体が、私たちにとって大きな気づきをもたらしてくれました。答えのない問いに向き合い、考え続けることの重要性を改めて認識する機会となりました。

今回の朝活は、参加者の皆さんの活発な意見交換によって、大変実りあるものとなりました。ご参加いただき、誠にありがとうございました。

(本記事は、哲学カフェ朝活での参加者の皆様の議論に基づき構成されています。特定の個人の意見やプライベートな内容は除外し、議論の要点と流れをまとめたものです。)

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