「学び続ける」「暇と退屈」「男女格差」 多様な視点が交差した深い対話の記録。2025年5月24日の朝活 哲学カフェ

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先日開催された哲学カフェでは、「学び続けること」「暇と退屈」「男女格差」という、現代を生きる私たちがそれぞれに感じ考えを巡らせることの多いテーマについて、対話を通じて深く掘り下げました。限られた時間ではありましたが、参加者それぞれの経験や価値観に基づいた多様な視点が交差することで、普段は気づかないような側面や、物事の本質に迫るような発見が数多く生まれました。本レポートでは、その白熱した議論の一部をご紹介します。

「学び続ける」「暇と退屈」「男女格差」 多様な視点が交差した深い対話の記録。2025年5月24日の朝活 哲学カフェ

人生を豊かにする「学び」の多面性

最初のテーマは「仕事と学び続けること」から派生し、「学び続けるとはどういうことか」、そして「学び」そのものへと議論が広がりました。

まず、仕事における学びについて、「特定の業務に必要な専門スキル」と「目標設定やコミュニケーションといった仕事に使える汎用的なスキル」がある という整理がありました。参加者の一人からは、技術職の立場から「業務で言われたことをこなすだけでなく、その本質を理解するためには知識が必要だ」という実感が語られ、技術的な教科書を読んで回路図や機器の配置、配線の理由などを理解することで、自分の考えを持って業務に取り組めるようになる、これが基本だと述べられました。

しかし、そもそも仕事と仕事以外の学びは明確に区別できるのか、という問いが提起されました。ある参加者は、仕事は日常生活の一部であり、明確に分ける感覚がないと述べ、ITエンジニアリングを例に挙げ、「結局仕事というのは人と人との関係の中でやるものだから、これは仕事もプライベートも一緒だ」という見方を示しました。システム開発の工程(要件定義、基本設計、詳細設計、製造、検査、運用)を例にとり、物を作るという大きな目的の中で工程が分かれているだけであり、要件定義で相手の要望を理解することは、恋人の不満を理解することと「ニアリーイコール」だと指摘。課題を解決し、何かを実現するという点では、仕事も日常生活も同じであるという洞察が共有されました。

この視点を発展させると、学びによって培われたスキルは、仕事だけでなくプライベートでも活用できる汎用的なものであるという考えに至ります。人の話を聞く傾聴スキルや交渉の仕方などは、仕事でもそれ以外でも応用できる。専門的な知識を学んだとしても、それを自分の中で咀嚼し、普遍化して共通点を見出すことで、仕事と仕事以外の学びの区別が薄れていく。ある参加者は、ITエンジニアとしてエラーハンドリングの専門知識を学ぶ中で、システムのエラー対応と人生で問題が起きた時の対処法が似ていると感じたと述べ、仕事のシステムと人生のシステムが重なる部分があることを指摘しました。学びは、仕事とプライベートを分けるつもりでも、一致する部分が多いという実感が語られました。

では、「学び」そのものは一体何なのでしょうか。ある参加者からは、「学びとは、自分自身を変化させていく作業ではないか」という見方が提示され、これが議論の起点となりました。「学ぶことによって、自分から見える世界が変わり、自分自身を変えていくことができる」。これは、千葉雅也氏の著書『学ぶとはどういうことか』で述べられている、「自分を変えること」「これまでのノリや行動パターンが悪くなること」に通じるという指摘がありました。学びによって価値観が変化すると、学ぶ前に仲良くしていた人との価値観がずれてしまい、関係性が難しくなる可能性も指摘されました。しかし、その場で「ノリを合わせる」ことで、学びながらも人間関係を維持する工夫もできるのではないか、という実践的な意見も出されました。一度疑って離れても、学びを深めて腹落ちさせれば、元の人間関係に戻ることも可能になる。

学びの過程で、多様な価値観や考え方を知ることは、あたかも「手札が増えるイメージ」であるというユニークな表現が生まれました。様々な価値観や思考パターンを知ることで、ある状況ではどの考え方が適切かを選択できるようになり、時代の変化にも対応しやすくなる。これは、特定の価値観に染まるのではなく、「多神教」のように多様な考え方を受け入れることだとも説明されました。

学びは最終的に「信仰」に行き着くという深い洞察も共有されました。例えば、「自由が大事だ」という信仰があれば税金を下げるべきだという結論になり、「平等が大事だ」という信仰があれば税金をもっと上げて社会保障を充実させようという結論になる。どちらも論理的だが、最終的にどちらの立場を選ぶかは個人の価値観、つまり信仰によるところが大きい。学ぶことは、多様な価値観を知り、その一長一短を理解した上で、自分の「信仰」を選択するための材料を得る作業であると言えます。自分の意見や信念を持つためには、周りに流されず、自分の知識で物事を検証し、ある程度の情報を入れて自分の考えを形成する必要がある。そして、「学び続ける」とは、自分が持っている「信仰」すらも疑い続ける作業だという意見も出ました。

学びの方法は、必ずしも読書だけではありません。「思うこと」と「学ぶこと」の両方が重要であり、一方だけでは危うい、あるいは暗いという中国の言葉が紹介されました。考えるだけでは自分の狭い世界に留まり、学ぶだけでは知識を鵜呑みにしてしまう。学びとは、他者の思い(考え方や知識)をお互いに交換することだという見方も提示され、哲学カフェでの対話そのものも、自分の思いを形づくると同時に、他者の思いを学び、自分の考え方の歪みを見つける場であるという認識が共有されました。

また、読書以外の学びとして、「好きな子に告白して振られる」「病気で死にかける」といった「体験」からの学びの重要性が強調されました。体験は感情を伴うため、理論だけでは得られない深い学びとなる。陽明学の「知行合一」にも触れられ、知識と行動が一体となること、行動こそが知識になるという考え方が紹介されました。江戸時代の学問が「正しい生き方」であったように、行動が学びの重要な一部であるという点が語られました。

学びを通じて得られるもう一つの力は、批判的に考える力です。しかし、批判的になりすぎると、批判は得意になるが、自分の意見がない状態に陥る危険性も指摘されました。だからこそ、批判するだけでなく、自分が何を信じるのか、という信念を持つことが重要になります。世の中には信念を持たずに「ノリ」で話す人がいること、意見の違う人が必ずいること、人間は必ずしも合理的ではないことなど、世の中の多様な現実を受け入れることも学びだと言えます。そして、「人の振りを見て我が振り直せ」というように、他者を観察し、自分自身を振り返ることも学びの重要な側面です。

学びのプロセスを視覚的に捉えようとする試みもありました。インプットに対して多様なアウトプット(思考パターンや行動原理)への「道」があり、学びとはこの「道」を一つずつ理解していく作業であるという比喩的なモデルが提示されました。多読は道の数を増やすこと、性読はそれぞれの道がなぜできるのか、その背景や過程を深く理解することだという解釈も生まれました。このモデルを通して、多様な学びの形態が整理されました。

「暇と退屈」:現代社会に潜む満たされない感情

後半のテーマの一つは「暇と退屈」でした。「私たちはYouTubeなど面白いものが溢れているのに、なぜ退屈を感じてしまうのか?」という問いから議論が始まりました。

まず、参加者の一人から「暇」と「退屈」の違いについての見解が示されました。暇は田舎や昭和のような時代のイメージで「ただの状態」であるのに対し、退屈は何か満たされない感じ、焦りや後ろめたさ、飢えといった「マイナスの感情」を伴うものだというのです。さらに、忙しいはずなのに退屈を感じることもある、という経験も語られました。これは、自分の内側からやりたいことではなく、「何かにやらされる」「自分じゃない人からやらされる」といった状況で生じるのではないか、という考察がありました。

バブル期には、特に大きな悩みもなく、将来への危機感も薄い中で「何をしていいか分からない」という退屈を感じる人がいたという指摘もあり。これは、世の中全体がイケイケドンドンで、その流れに乗っていれば良かった時代だったからかもしれない。一方、太宰治が生きた戦前のような時代は、明治維新を経て日本的なものが崩れ、個人社会が形成される中で、自分自身をどこに置くかという問題が生じ、頭を抱えるようなことがあった。現代もまた、安定的な雇用が失われ、SNSで居場所を嫌でも知らされるなど、自分を見つけたい人が多くなり、退屈と関連しているのではないか、という分析がなされました。

もし、現代と太宰治の時代(あるいはさらに過去)を選べるとしたら、どちらが充実した人生を送れそうか、という興味深い問いも投げかけられました。知的好奇心を満たし、学びを続けて様々なものを積み重ねていくことに生きる目的を置く参加者にとっては、それが叶いやすい現代の方が充実していると感じられる。一方、江戸時代のように「やることがちゃんと決まっていて」、経験が重視される閉鎖的だが安定した社会に憧れるという声もありました。親子の職業が同じで親を尊敬しやすかった時代や、先人の経験が頼りになった時代への郷愁も語られました。

さらに遡り、1万年前の狩猟採集生活を送っていた人々の方が、現代人よりも幸福度が高かったのではないかという仮説が提示されました。これは、食料を求めて移動する生活が人間の気質に合っており、常に生きることに必死で、新しい環境に適応するために知性や力が発揮された状況が、人間にとって最も幸福を感じやすい状態だったという分析に基づいています。現代人は定住生活により、脳の容量が減り退化している可能性すら指摘されました。

では、現代社会における退屈にどう向き合えば良いのでしょうか。一つの対策として「移動すること」が提案されました。物理的に環境を変えることで、今まで見えていなかった視点が得られるというのです。目的がなくても日帰りで遠出するだけでも効果があるかもしれません。移動する距離が大きいほど、より大きく環境が変わり、退屈への対抗策となるという考え方です。また、一つのことに満足したら新しいことをどんどんしていく、という「新しいことへの移動」も有効な対策ではないかという意見も出ました。

人の多様性も退屈との関連で議論されました。安定した仕事を好む人もいれば、刺激を求めて流動的に活動したい人もいる。これは、集団の中に多様な行動パターンを持つ個体がいることで、変化に対応し全滅を防ぐための「設計された多様性」なのではないか、という進化的な視点も共有されました。自分の心のエネルギーを満たす方法も人それぞれであり、人との繋がりを求める人もいれば、一人静かに過ごすことを好む人、思考を巡らすことや議論に喜びを感じる人もいる。それぞれのパーソナリティに合った「刺激」を求めることが重要だと考えられます。

人生で何を一番大事にするかという価値観も人それぞれです。知的好奇心を満たすこと、楽しむこと、社会に貢献することなど。ある参加者は、以前は社会貢献を重視していたが、今は「楽しいかどうか」を一番大事にするようになったと述べました。これは、自分が楽しんでいる時が最もパフォーマンスを発揮でき、結果として周りの状況も良くなる、という自己目線での最適化から生まれた価値観の変化だと言います。また、楽しさや幸せ、そして「感謝」といったポジティブな感情が、内側から力を引き出す原動力となる、という意見も共有され、腹落ちした経験を伴う感謝が特に重要であると強調されました。

退屈の対策として、興味深い「消費」と「浪費」という概念が紹介されました。資本主義社会は、暇を「消費」させることで成り立っている面がある。例えば、流行りの場所にデートに行ったり、話題の店で食事をしたりしても、それは「あそこに行ったよ」という情報や「おしゃれなカフェにいる自分」という概念を消費しているだけであり、物自体(食事の味やその場の雰囲気など)を十分に体験していないため、満足感は得られず、退屈は解消されない。これに対し「浪費」とは、物事そのもの、体験そのものを五感で味わい、心から楽しむこと。美味しいものを心ゆくまで味わう、行きたい場所に行きたい方法で行くといった浪費は、概念ではなく体験に根ざしているため、深い満足感をもたらし、退屈をなくすことができる。哲学カフェでの対話も、単に「朝活に参加した」という概念を消費するのではなく、他者の話に引っかかりを感じ、自分なりに考える「浪費」にすることで、退屈しない学びになる。

幸せについても、それは「概念ではなく感じるもの」であるという見解が示されました。飢餓に苦しむ人々と比較して自分は幸せだと頭で理解しても、それは概念としての理解にすぎず、実感として伴わない。一方、身近な人との温かい交流など、日々の生活の中でふと感じる幸せこそが、実感としての幸せであり、それは言葉で伝えにくい。感じ方には個人差があるが、マズローの欲求段階説に示されるように、生存欲求など人類共通で満たされると幸福を感じる基盤もある。究極的には「生きていること自体が幸せ」という境地に到達できれば、退屈はなくなるのかもしれません。

ユングの自己実現論も退屈を考える上で示唆に富む視点を提供しました。人間は豊かな可能性を秘めているが、社会的な制約などによりその一部しか発揮できていないのが現実である。自分の中に眠っている感情や思考、能力を無視し続けると神経症になる可能性がある。自分の中の「心の澱」を見つけ、それを生きることが自己実現であり、心の中の世界を大切にすることが、退屈に陥らない生き方に繋がるのかもしれません。

対極的な生き方として、金銭や異性との関係、あるいは遺伝子を後世に残すことを自己実現のミッションとする人物の例も紹介されました。その人物は、自身の持つ能力を余すところなく使い、逆境すらも乗り越える強さと一貫性を持っている。彼のような生き方は、文字通り「自分の可能性を実現していく」ユングの自己実現の一つの形であり、暇や退屈とは無縁の充実した人生を送っているように見える。多様な人生観、自己実現の形が存在することが改めて認識されました。

「男女格差」:多角的な視点と価値観の衝突

最後のテーマ「男女格差」では、参加者それぞれの率直な意見や経験が語られ、複雑な問題であることが浮き彫りになりました。

まず、特定の男性参加者から「男性に生まれたくなかった」という強い感情が表明され、その背景として、若い頃の恋愛において女性との関係性構築に難しさを感じた経験が語られました。結婚や出産を前提とした関係では女性が有利、単に気が合うかを重視する若い頃は格差がある可能性、そして老齢になった際には子供を産んだ経験のない女性よりも子供を持った男性の方が幸福度が高い可能性など、人生の段階によって男女の有利不利が変わりうるという見方が示されました。

女性参加者からは、現実的な男女格差として「出産・育児によるキャリアの中断」が挙げられました。特に20代後半から30代という、キャリアを積む上で重要な時期に1年以上の産休・育休が必要となり、その後も子供の病気などで仕事を休まざるを得ない状況が生じる。これにより仕事が滞ることは避けられず、キャリア形成において男性より不利になる側面がある。ただし、時代とともに企業の理解が進み、男性の育休取得なども増加傾向にあるため、この点は改善されていくのではないかという希望も語られました。出産そのものの身体的負担は避けられないハンディであるとも指摘されました。

日常生活における女性の負担や制約も話題となりました。例えば、一人で街を歩く際に安全に気を配る必要があること や、化粧など身だしなみに手間と費用がかかること。「楽ではない」と感じる人もおり、これは社会的な常識や規範の影響も大きい。ハイヒールのように、おしゃれではあっても動きやすさを損なうアイテムなども、女性特有の負担として挙げられました。全体として、社会的な背景においては男性の方が有利な面が多いと感じる参加者もいました。また、女性の方が他者への依存が大きく、周囲との関係性によって幸福度が決まる傾向があるのではないか、という意見もあり、歴史的に女性が守られる役割を担ってきたことと関連があるのではないかという考察がなされました。

しかし、時代や文化によっては女性が有利な場面も存在します。合コンの参加費など、一部の場面で女性が優遇されるのは、社会全体での女性の不利を補うためではないか、という推測もなされました。また、歴史的に女性が恋愛面で強かったことで男女間のバランスが取れていたが、仕事面での格差が縮小するにつれて、恋愛面での女性の有利さだけが残り、不均衡が生じているように見えるという意見も出ました。

男女格差を解消するための根本的な可能性として、「女性が自分の体で子供を産む」という前提が変わること、すなわち代理出産などの技術が進歩すれば、キャリアにおける最大のハンディが解消され、平等が進むのではないかというジャストアイデアも飛び出しました。

議論の中で特に白熱したのは、個人情報漏洩における損害賠償額に関する法的な判断と、個人の価値観のずれについての話題でした。ある参加者は、セキュリティ教育で知った情報として、個人情報漏洩時の賠償額のカテゴリにおいて、女性のスリーサイズやエステ・性病歴が、住所やクレジットカード情報よりも高い(より損害が大きいとみなされる)カテゴリに分類されていた最高裁判例に疑問を呈しました。最高裁の判断理由とされるのは、スリーサイズなどは漏洩した瞬間に精神的苦痛を与えるのに対し、住所や財産は実害が起きるまで損害とみなされないため、ということでした。

しかし、参加者からは「住所や財産がバレる方がよっぽど怖い」「命や財産の方が優先して守られるべきだ」という率直な意見が出ました。女性参加者からも、スリーサイズが知られることは残念かもしれないが、住所がバレる方がはるかに危険だと感じるとの声が上がりました。なぜ法的な価値判断と個人の感覚にずれが生じるのか、議論となりました。この法的な判断には、女性の身体情報がもつ特殊な価値や、漏洩による精神的な屈辱感、あるいは名誉棄損といった側面が複雑に関係している可能性が探られました。ある参加者は、童貞であることを全世界に知られることと比較し、「悔しさ」に金銭的な価値がつけられているのではないかというユニークな解釈も示しました。この例は、同じ事柄でも、受け取る側のコンプレックスや自己肯定感、社会的な規範などによって、その価値や損害の感じ方が大きく異なることを示唆しています。そして、最終的には「人によって違う」という言葉の重みを改めて感じたという感想が述べられました。幸せもそうであったように、男女格差における価値判断もまた、概念的な定義ではなく、それぞれの人がどのように「感じるか」によって大きく異なる問題であると言えるでしょう。

また、男女間で他者、特に異性の「像」の認識の仕方に違いがあるのではないかという仮説も提示されました。男性は一度認識した相手のイメージが比較的長く保持されるのに対し、女性は時間が経つとイメージが薄れやすく、関係性を維持するためには頻繁な連絡を好む傾向があるのではないか、という推測です。遠距離恋愛における男女間の感覚の違いなどが例として挙げられましたが、個人の特性による差も大きいため、さらに多くの事例や視点が必要だという結論になりました。

対話から生まれる新たな気づき

今回の哲学カフェでは、「学び」「退屈」「男女格差」という異なるテーマを扱いましたが、それぞれの議論は相互に関連し、深みが増していくのを感じました。学びが自己変革や多様な価値観の理解に繋がり、それが現代社会に潜む退屈への向き合い方や、複雑な男女格差といった問題への多角的な理解を助ける。そして、多様な経験や価値観を持つ人々との対話そのものが、新たな視点をもたらし、自分自身の考え方を深めていく「学び」であり「浪費」である、ということが実感として得られたように思います。

同じテーマについて話していても、参加者それぞれが全く違うことを考え、違う捉え方をしている。しかし、それが「戦争」を引き起こす可能性もあれば、互いの視点を理解し、受け入れることで、自分だけではたどり着けなかった深い気づきや新たな発見に繋がることもある。今回の哲学カフェは、まさに後者の体験であったと言えるでしょう。

終始、参加者それぞれの実体験に基づいた率直な意見が飛び交い、時にユーモアも交えながら、和やかな雰囲気の中で深い対話が進みました。哲学とは、難しい理論を学ぶことだけでなく、日常の問いを起点に、自分自身の内面や、他者、そして社会について、立ち止まって深く考えることなのだと改めて感じさせられました。

今回の対話を通して得られた学びや気づきは、参加者それぞれの心に深く刻まれ、今後のそれぞれの生き方や考え方に影響を与えていくことでしょう。ご参加いただいた皆様、そして貴重な対話を提供してくださった皆様に心より感謝申し上げます。

次回の哲学カフェでも、多様な方々との出会いと、そこから生まれる予期せぬ気づきを楽しみにしています。ぜひお気軽にご参加ください。

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