「賢さとは何か?」そして「働かなくでもいいならどうする?」2025年5月3日の朝活 哲学カフェ。

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2025年5月3日、朝活で哲学カフェが開催されました。今回のテーマは「賢さとは何か?」そして「働かなくてもいいならどうするか?」という、私たちの日常にも深く関わる問いでした。参加者それぞれの経験や価値観が交錯し、多角的な視点から活発な議論が繰り広げられましたので、その模様をお届けします。

テーマ1:「賢さとは何か?」恋愛から仕事、そして人間関係まで

最初のテーマ「賢さとは何か?」の議論は、恋愛における具体的なエピソードから始まりました。ある参加者の恋愛経験がきっかけとなったようです。相手のことは頭が良いと分かっていたそうですが、5回目のデートで手をつなぐかどうかという場面で、行動する前に頭で考えすぎてしまい、結局行動できなかったという話でした。

このエピソードを受けて、「頭の良い人」は行動の前に予測を立てるから一歩踏み出せないのではないか、という仮説が提示されました。しかし、別の参加者からは、考えすぎて動けないのではなく、愛着スタイルなどの別の理由があって動けないのであり、それを考えるという行為はまた別のことではないか、という指摘がありました。考えた結果、「動かなくていい」と判断しているのかもしれない、という見方です。

「賢さ」の定義についても様々な意見が出ました。一般的な価値観としては、記憶力が良いことや学校の勉強ができることが「賢い」と見なされがちであるという意見がありました。九九を覚えられるかどうかという具体的な例も挙げられました。しかし、それは「記憶力の良さ」であって「頭の良さ」とイコールなのか、という疑問も呈されました。

一方で、「仕事ができる人」は賢いと思われる傾向があるという意見もありました。トラブル発生時に迅速に問題点を特定し、解決策をたくさん提案できる人は賢いと感じられる、という例が挙げられています。これは、多くの情報を処理し、適切な判断を下す能力、つまり「頭の容量が大きい」人が賢いと思われがち、ということかもしれません。

議論が進む中で、「賢さ」は単なる知識や論理的な思考能力だけではない、という視点が強調されました。認知能力としてのIQに対し、EQのような非認知能力の重要性も指摘されました。お笑い芸人の大悟さんなどがその例として挙げられ、非認知能力が高いことも「賢さ」ではないか、という意見です。コミュニケーションにおいては言語能力だけでなく、相手との距離感や自信など、非言語的な要素が重要であり、知能が高くなくても非認知能力が高ければそれを補える可能性があるのではないでしょうか。

そして、このテーマにおける最も重要な気づきの一つとして、「望む結果を得られているか」がその状況やケースにおける「賢さ」の定義になるのではないか、という意見が出ました。潜在能力だけでなく、「結果」として現れること、しかも「望む結果」であることが重要だとされました。日本ではマイナースポーツで優勝しても評価されにくいように、求められているものをどう実現するかが賢さとして見られるのかもしれません。

感情と賢さの関係についても活発な議論がありました。感情的になってしまうと論理が破綻したり、矛盾した言動が増えたりする様子が共有されました。感情のコントロールができるかどうかが賢さではないか、という意見も出ましたが、これも一側面であり、俳優のように感情的な側面がありつつも、演技構成力などの別の能力で評価され、「賢い」と感じさせる人もいる、という反例も挙げられました。つまり、賢さと感情は対立するものではなく、共存しうるのではないか、という見方です。

賢さの反対は何か、という問いに対しては「非効率性」ではないかという意見や、将来を予測する能力の有無、そしてそれができない人を「頭の悪い人」と呼ぶのではないか、という意見が出ました。しかし、人生においては感情が絡むため、将棋のように論理だけで未来を予測することは難しく、仮説を立てることしかできないという現実も指摘されました。

最終的に、「賢さ」は多面的であり、無限にある指標の中のどこを捉えるかで評価が変わる、多次元的なものであるという理解に至りました。そして、自己認識が強い人が賢いのではないか、という意見も出ました。自分の得意・不得意を理解し、人生というゲームを楽しく遊べている状態が賢さにつながる、ということです。しかし、自己認識のためには感情のコントロールが必要であり、感情的な状態では自分を客観的に見ることが難しいという難しさも指摘されました。

また、「賢さ」は結局のところ「他者からのレッテル」なのではないか、という興味深い視点も提示されました。1万人にアンケートを取っても全員が同じ人を賢いと答えることはないだろう、つまり賢いと思われている人が賢いだけであり、自己評価はあまり意味がないのではないか、という意見です。自分自身については「得意・不得意」というベクトルで考えることが多く、「賢いかどうか」はあまり考えたことがないという参加者もいました。他者からの評価や、その人の持つ価値基準によって賢さの定義は異なり、多様な捉え方がある、というまとめがなされました。

テーマ2:働かなくなったらどうするか?自由と退屈、そして自己の確立

二つ目のテーマは「働かなくなったらどうするか?」でした。これは、「もし経済的な不自由がなくなったらどうするか」という問いとして掘り下げられ、例えば「一生涯、毎月200万円が自分の口座に振り込まれる」という状況を仮定して議論が進められました。

この問いに対し、多くの参加者から出た意見は「結局働くと思う」というものでした。ただし、それは「やりたくないことは絶対やらない」という条件付きの働き方になるだろう、とのことです。

最近読んだという「暇と退屈の倫理学」という本の話が紹介され、議論に深みが増しました。この本によると、現代社会では労働はもはや強制されておらず、むしろ「暇」が強制されている状態だというのです。生活のために必死に働く必要がなくなった現代人は、有り余る暇に耐えられず、何かをしてしまう。趣味ですら、外部からのモチベーションでやっている人が多い、という指摘がなされました。人間は、日々の忙しさの中でも感じる「暇」をどう解消するかに悩んでいるのではないか、ということです。これは、定住生活を始めて脳を必要以上に使わなくてよくなった人類が、暇を持て余し始めたからではないか、という主張も紹介されました。

経済的自由を得たとしても働く、という意見の背景には、社会との繋がりを求める欲求があるようです。特に都会(東京)では、働くことによって人間関係が構築される側面があるため、働かないと社会との繋がりが希薄になってしまうという懸念が語られました。一方で、地方に住む参加者からは、田舎にはそもそも人が少ないため、畑仕事など別の形で社会との繋がりを求める可能性が語られ、働くことの定義や目的が地域によっても異なることが示されました。

退屈さとの関連も指摘されました。毎日忙しく過ごしていても退屈だと感じる人はいるように、働くことと退屈さは別物であり、経済的に自由になった時に「退屈」にどう向き合うかが重要になるようです。仕事をやめてしまうと、新たなチャレンジをするための「足がかり」がなくなってしまう感覚になる、という意見もありました。

仕事をやめた場合の人間関係の変化についても語られました。会社という固定化された人間関係から抜け出すことで、新たなコミュニティや思考が生まれる可能性がある一方で、自分から積極的に人との繋がりを作ることが苦手な人もいる、という現実的な悩みも共有されました。ただし、人との繋がり方は多様であり、自分が得意なコミュニケーションチャネルを見つけることが重要だ、というアドバイスもなされました。

経済的自由を得ることによるメリットは、「時間を自由に設定できる」ことですが、これにはデメリットも伴うことが指摘されました。時間を自分でコントロールするためには「意思力」が必要になり、これが難しいという経験が共有されました。会社勤務のように時間が固定されていないと、つい夜更かしをしてしまったり、だらだら過ごしてしまったりして、時間を浪費してしまうことがあります。これを回避するために、図書館やレンタルスペースなど、強制的に行動できる場所に身を置くことで、時間をパターン化して自分を律しているという参加者もいました。これは、「賢いやり方」として評価されました。

また、選択肢が多いことの苦悩も語られました。会社という環境は、良くも悪くもやるべきことが限定されているため、選択肢が絞られて迷わずに済むというメリットがあります。一方で、完全に自由な時間になると、何をするかという選択肢が膨大になり、思考が分散して混乱してしまうことがあるそうです。スティーブ・ジョブズが毎日同じ服を着ていたという話も、無駄な選択を減らすためだったという例として挙げられました。

「働くことにおける自己実現欲求は、実は資本家によって仕掛けられたものなのではないか」という挑発的な問いも提示されました。資本家は労働者に積極的に働いてもらいたいと考え、働くことを「良いこと」「尊敬されること」という社会的な雰囲気を作り上げたのではないか、というのです。狩猟採集時代にも「誇り」はあっただろうが、それは現代の「自己実現」とは異なるかもしれない、という視点が提示されました。

イランの働き方に関するエピソードも紹介されました。イランでは、石油が出るなどの理由から、多くの人があまり働かずに生活しており、朝から哲学を語り合ったり、たまに日雇いの仕事をするのが普通だそうです。これは、月曜から金曜まで9時5時で働くという日本のスタイルが、世界のスタンダードから見ればむしろ特殊である、という気づきを与えてくれました。働かなくても暮らせる社会のあり方や、日本の税金やその使い道に対する不満なども関連して議論されました。

最終的に、「働かなくても良くなったら何をするか」という問いは、「本当の自分になる」という話につながっていきました。働くためには社会的な「鎧」をつけなければならないが、経済的自由を得ることでその鎧を外し、本来の自分を見つけ、やりたいことを見つけていくプロセスに入るのではないか、という示唆です。多くの参加者が、経済的自由を得ても「結局働く」という結論に至ったのは、人間は孤独や退屈に耐えられず、何らかの活動や社会との繋がりを求める生き物であるという性質、そしてそれが自己実現や自己の確立につながるという感覚があるからかもしれません。

もう一つの視点:自己の形成と愛着スタイル、そして立ち位置

今回の哲学カフェ全体を通して、個人の経験や内面、特に幼少期からの自己形成が、賢さや働くことに対する価値観に深く影響していることが示唆されました。

特に強調されたのは、10歳頃までの経験がその人の本質的な性格や価値観を形成するという視点です。これは「幸福の資本論」という本の内容にも通じるところがあるそうです。そして、多くの人が社会に出てから感じる違和感や困難は、この10歳頃までに形成された「本当の自分」と、社会で求められる役割とのずれに起因するのではないか、という仮説が共有されました。

親からの影響、特に愛着スタイル(不安型、回避型、安定型)が、その後の人間関係や恋愛における距離感に大きく関わっているという話も印象的でした。親に対して十分な信頼が持てなかったために、人との距離を置く「回避型」になる人もいるという指摘があり、これが恋愛における困難につながる可能性も語られました。

また、学校や組織における「居場所」や「必要とされている感覚」を求める欲求も、働くことへのモチベーションや働きやすさに影響することが示唆されました。特に、少人数の環境で自分が貢献している実感を得られる方が働きやすいと感じる人もいれば、大人数の中で埋もれている方が楽だと感じる人もいるなど、自己の立ち位置に対する欲求も多様であることが示されました。ある参加者は、小学校時代のスクールカーストにおける立ち位置や、ダンス部の部長を務めていた経験が、その後の自己認識や人間関係への影響を示唆しているという話が語られました。これは、カーストに属したくない、あるいは特定の役割を求めるという欲求が、幼少期に形成され、その後の人生に影響を与え続けている可能性を示しています。

さらに、ユタボン氏や芦田愛菜氏のように、幼い頃から社会的な活動をしてきた人たちは、早期に社会で果たすべき役割を形成し、それを追求していくことが幸福につながるのかもしれない、という興味深い見方も提示されました。

これらの議論を通じて、賢さや働くといったテーマが、個人の深い内面や形成過程、そして人間関係における根本的な欲求と強く結びついていることが明らかになりました。自分の価値観や得意・不得意、そして過去の経験(特に幼少期)を深く理解することが、賢さや働くことに対する自分なりの答えを見つける上で重要なのではないか、という示唆に富む対話となりました。

まとめ

今回の哲学カフェでは、「賢さ」が多面的で定義が一つではないこと、そして望む結果を得ることや自己認識の強さも賢さの一側面として捉えられることなどが議論されました。また、「働かなくなったらどうするか」という問いは、経済的自由を得たとしても人間は社会との繋がりや活動を求める生き物であるという本質、そして「暇」との向き合い方、自己管理の重要性などに議論が発展しました。

そして、これらのテーマの根底には、幼少期からの自己形成、親との関係性や愛着スタイル、そして人間関係における立ち位置を求める欲求といった、個人の内面深くにあるものが影響していることが明らかになりました。

哲学カフェならではの、一見抽象的な問いから始まり、参加者それぞれの具体的な経験や知識が共有されることで、多様な視点が開かれ、テーマが多面的に深まっていくプロセスは非常に刺激的でした。一つの「正解」を求めるのではなく、様々な考え方や価値観に触れることで、自身のものの見方や理解を深めることができる貴重な機会となりました。

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