先日、哲学カフェを開催しました。今回のテーマは、参加者からのリクエストもあり、**「死」と「美しさ」**という、私たちの生に深く関わる二つの概念です。普段じっくり考える機会の少ないこれらのテーマについて、多様なバックグラウンドを持つ参加者それぞれが率直な思いや考えを共有し、深い対話の時間を過ごしました。
なぜ人は「死」を普段考えないのか?恐れ、コントロール、そして目標
最初のテーマは「死」でした。全ての人は必ず死ぬにもかかわらず、普段は死についてあまり考えないというギャップから議論が始まりました。なぜ私たちは死を考えないのでしょうか?考えることに意味がないから、どうしようもないことだから といった意見や、怖いから考えたくない という声もありました。
死が怖いのはなぜか?経験したことがないことだから怖いのではないか、もしかしたら死んだら楽しいかもしれないのに、という問いかけがありました。また、「自分が世の中をコントロールできるという前提」 で物事を考えていると、コントロールできない「死」 が来たときに苦しみや恐れを感じる のではないか、という仏教的な考え方も紹介されました。雨が降るのを不幸とは感じないように、死もただ起こることとして受け入れられれば苦しみではないのかもしれません。
もし自分が死ぬ日が分かっていたら、例えば「あと半年」 と言われたらどう受け止めるか、遠い未来であれば怖くないのか といった具体的な問いから、人生の計画との関連性 が指摘されました。自分が思い描いた人生の計画がコントロールできる範囲だと思っている時に死が来ると怖い のかもしれない、という視点です。目標を持って何かを成し遂げようとしている人にとっては、計画が中断されることが苦痛につながる のかもしれません。一方で、目標がないと生きるエネルギーがなくなる という話もあり、定年退職後に目標を見失った例や、コーチングの世界の考え方 が紹介されました。目標を持つこと、そして「今」を積み重ねること が、死を受け入れる余地を生むのではないか、という意見も出ました。
「死」を巡る多様な視点:死後の世界、人格、そして喪失
死後の世界については、「生きている私たち絶対わかんない」 という共通認識がありました。臨死体験の話 も紹介されましたが、それが本当に存在するかどうかは「情報空間には存在してるとしか言えない」 と、結局分からないという結論に至りました。
「生命の死」だけでなく、「人格の死」 や「概念の死」 という視点も提示されました。テセウスの船のパラドックス に触れつつ、体が完全に変わっても記憶や意思決定の連続性があれば本人と言えるのではないか、という議論や、誰かに忘れられた時がその人の死である という考え方なども紹介されました。心臓移植によってドナーの記憶が蘇ったとされる事例 は、生命の定義を揺るがす興味深い話でした。
また、大胆ながらも深い洞察として、「寝取られ」を経験したときの感覚が人の死と似ているのではないか という意見が出ました。自分が抱いていた相手へのイメージ と、相手の実際の行動や実態 との結びつきが断ち切られる喪失感 が、死を認識することと共通するのではないか、という示唆に富む議論でした。
その他にも、自殺を考える人への支援団体の活動 や、「死ぬ権利」 について、宗教観や社会的な背景(労働力維持) を踏まえた議論が交わされました。生命体に限らず「存在」として捉えるならば、死は終わりではなくただ状態が変化することに過ぎないのではないか、という哲学的な視点も提示されました。
「美しさ」ってなんだろう?個人的な感覚?客観的なもの?
続いてのテーマは「美しさ」です。「真・善・美」 というギリシャ哲学の概念にもあるように、美しさは価値観の一つですが、そもそも「美しさって何だろう?」 という問いからスタートしました。
「何を美しいと感じるかは個性」 であり、個人的な感覚 であるという意見が多く出ました。人が美しいものに触れたときに力が出る といった、その感覚がもたらす効果にも話が及びました。
美しさを感じる主体は「体を持ってる私たち」 であり、五感で捉えるものとして「リズム」 が一つの鍵ではないか、という話が印象的でした。味のハーモニー、音楽のテンポ、絵画のパターンや視線の誘導、光の波長 など、時間的な変化や空間的なパターン を心地よく感じることが美しさにつながる という考え方です。そして、その心地よさを感じる「リズム」は人それぞれであり、育った環境や体験によって「学習」 され、形成されていくのではないか、という示唆がありました。遺伝的なアルゴリズム に環境からのデータが加わって、美醜の判断基準となる「評価関数」 が作られていく、というモデルも提示されました。
完璧ではないもの、秩序、そして醜さの中の美
完璧に整ったものよりも、わずかなアンバランスさやランダム性 がある方が美しさを感じるのではないか、という議論も興味深いものでした。数式の美しさ は、カオスの中から秩序が見出される ことや、証明のプロセス にロマンを感じるからではないか、という意見が出ました。また、カオスな状態に秩序を与えること、複雑なシステムやメカニズム そのものに美しさを感じる という視点も共有されました。
美しさは「感じることでしか認識できない」 主観的なもの である、という現象学的な考え方も紹介されました。入浴したときの気持ちよさ や、何かに没入したり集中したり している状態も、ある種の「美しさ」を感じている状態と言えるのではないか、という問いかけは新鮮でした。
さらに踏み込んで、汚いものや人間の醜さの中に美しさを見出す 視点についても議論されました。シリアルキラーの内面 やゴミ屋敷 など、一見ネガティブに見えるものの中にも、それに至る経緯や背景にある人間ドラマ を読み解くことで、美しさを見出すことができるのではないか、という意見が出ました。これは、汚いがあるから綺麗が成立する という仏教的な関係性 にも通じる考え方です。
「美人・イケメン」に関する経済的なメリット についても触れられましたが、それは美しさの「利用価値」 や「スキル」 としての一側面であり、美しさの本質とは異なるのではないか、というニュアンスも含まれていました。美しさは「作るもんじゃなくてその人中で生まれるもの」 という考え方が示されました。
対話を終えて
「死」と「美しさ」という、対照的でありながらも私たちの存在に関わる深いテーマについて、多角的な視点から活発な対話が行われました。一つの明確な結論に至るのではなく、それぞれのテーマが持つ複雑さや多様な解釈に触れ、参加者それぞれが新たな気づきや問いを持ち帰る時間となりました。
哲学カフェでは、このように特定のテーマについて、参加者全員で問いを深め、多様な意見や考えに触れることを大切にしています。今回の議論も、日頃意識しない事柄について立ち止まって考える貴重な機会となりました。
次回の哲学カフェも、今回のように興味深いテーマを設定し、皆様と深い対話ができることを楽しみにしています。